大川隆法氏がご逝去されて5か月が経とうとしておりますが、未だ教団からの公式な発表はありません。
倒れているところを発見され、そのまま死亡が確認されているわけですが、まるで孤独死のような死に方です。
イエス・キリストと高橋信次氏のご感想を是非ともお伺いしたいものですが、そう思っている人も多いでしょうね。
あれだけ教団の次期後継者として持ち上げていた長女の咲也加氏は父親を呪い殺した張本人の汚名をきせられており、このままですと教団が存続する限り、信者や関係者の方から憎悪され、恨まれることになります。
取り合えず大川さんの死亡診断書を取り寄せ、死因を明確にし、呪い殺したわけではない事実を証明していくしかないでしょうね。
アンチブログもほとんどなくなっておりますし、大川さんの死亡をもって幸福の科学の情報も減少していくことは避けられないでしょう。
霊言は1989年の『仏陀再誕』までが霊天上界最高霊域の霊言であり、それ以後の霊言は全てダメ出しです。
幸福の科学のすばらしい霊言は皮肉なことに最後、仏陀自身が幕を下ろしたわけです。
1985年8月の『日蓮聖人の霊言』から1989年11月30日の『仏陀再誕』までが最高の霊言であり、4年と少しの間しか高級霊の霊言を下ろすことはできませんでした。
全ては大川さんの悟り不足と未熟が原因でした。
風呂敷は非常に大きかったわけですが、それを包む内容物に問題があり過ぎました。
当初から懸念されていた悟り不足は、最後まで解消することはなく、むしろ拡大していったのです。
その1980年代当初からの懸念事項が、結局幸福の科学にとって致命傷になったのです。
もう少し謙虚に正しき心を探究し、求道心を磨くべきでした。
ただこの時期に高級霊の霊言に触れられた人は非常に幸運な人でした。
『仏陀再誕』の「我、再誕す」から始まって、2009年の選挙で『仏陀落選』となり、「我、落選す」となり、『仏陀再婚』によって「我、再婚す」と徐々にお笑いを帯びてきました。
幸福の科学の主な使命は3つあったと言っていいでしょう。
一つは「救世の法の完成と成就」であり、二つには「宗教改革」であり、三つには「新文明の建設」です。
この3つの使命をどれも果たすことなく死んでしまいました。
多くの諸神霊の協力を頂き、大量の光の天使を巻き込んだ今回の大救世運動の200年計画は、一体何だったのかという不測の事態に陥っています。
救世の総仕上げの最後の最後でジョーカーを引いてしまったのです。
ただ死んだ者は、戻ってきません。
もう、どうしようもないでしょうね。
「救世の法の完成と成就」、並びに「宗教改革」や「新文明の建設」は、ゼウス神を中心に仕切り直しということです。
「救世の法の完成」とは、人類単位の幸福の原理の完成のことであり、果たして仏陀が一体どういった幸福の原理とその法を意図していたのか、結局は分からずじまいとなってしまいましたが、幸福の原理の完成が「救世の法の完成」なのです。
今の幸福の科学は「愛・知・反省・発展」の四正道を幸福の原理としておりますが、そのような抽象的な法ではありません。
次世代の文明は、神への信仰が中心と土台に置かれるわけですから、その神の心から見た善悪の普遍的な価値基準を明確に提示しなければならない。
当サイトはその人類普遍の善悪の価値基準を「水平線の法」として明確に提示しておりますけれども、善悪の基準こそが真理探究の考究の出立点です。
考究の出立点として重要と思われましたので、かなり古い方の真理ですが「原文 4」(コードク)を3分の2ほど加筆・修正したものを掲載しておきます。
かつてオーストリアの動物行動学者・コンラート・ローレンツは、「人間というのは、唯一同じ種族同士で殺しあう種である」と言いました。
同種族内で、しかも数十万単位で獰猛に殺し合う種は人間だけだ。
人類とは、そういう稀有な種なのだというわけです。
このローレンツの言葉を思想的に演繹して性悪説に結び付ける人もいます。
食物連鎖の自然界においてこれだけ同種族内で獰猛な殺し合いを演じる種は人間だけなのだから、きっと人間の存在は悪なのだというわけです。
例えば歴史における人間の人間に対する迫害や虐殺を見てみろ。
ロシアのポグロム、アウシュビッツ、異端審問、インディオの虐殺、クメールルージュ、南京大虐殺、オートジェノサイド。
人類愛や正義が如何に空々しく聞こえることか。
人間の存在は悪であるがゆえに、かかる蛮行が可能なのだ。
人間は悪であるゆえに、かつて互いに獰猛に殺し合ってきたし、今も殺し合っているし、今後も殺し合っていくのだ。
人間の存在は悪だからだ。
嘘だと思うならば、歴史における人類の戦争と平和の期間を検証してみるがいい。
そこには獰猛な闘争好きの人間の本性が明かされ、証拠だてられている。
人間は悪なのだというわけです。
性悪説です。
人間以外の動物で、何十万単位で、しかも同種族内でこれだけ殺しあう動物は他に存在しない。
人は人に対してよく「あの人間は畜生にも劣る」というが、それは畜生に対して失礼である。
彼らはこれだけの同胞殺しをしないし、子にしろ一生懸命育てる。
人間の存在は自然界における鼻つまみなのだ。
人間さえいなければ、自然界は動植物と共に平和な楽園を営んでいるであろう。
人間の存在は「悪」なのだという訳です。
ちなみに最近の動物学の知見では、サルやライオンの子殺し、ワシの弟姉殺し、鳥の卵殺し等々、自然界における同類殺しの実例があることが分かっています。
しかして人類ダメ小説を書かれた平井さんは、そういう知識の正確不正確を述べているのではないでしょう。
歴史上あらわれた闘争と破壊の結果をみて、人間生命が真に善であるならば、歴史における戦争や不和はありえない。
人間が善であるならば、闘争と破壊に彩られてきた歴史の方が嘘ということになる。
人間は、悪だからこそその通り、かつて闘争と破壊の中で生き、今も気候変動や自然破壊の中で生き、そして今後も生きていくのだ。
人間の存在が悪であるという動かぬ事実は、歴史が厳然と証明している。
かつてGLAの初代教祖・高橋信次氏は、その著書の中で歴史における人類の戦争と平和の比率は「7対3」であると言いました。
人類の歴史では戦争の期間が「7」であり、平和の期間は「3」ほどしかないということです。
してみると平井さんや性悪説論者の言う如く、歴史は確かに人間の存在を悪であると立証しているように見えます。
しかして本当に人間の存在は悪なのでしょうか?
歴史があらわしてきた人類の所業には、確かに認容しがたい実態、許してはならない事件、反省しなければならない事実はあるでしょう。
しかして歴史の現象は人間の生命そのものを善とも証明できなければ、悪とも証明できません。
過去から現在に至るまで、人類が世界に対してなしてきた戦争と平和の比率が「7対3」であるならば、何故人間生命それ自身にそれを超越していく力が在ると信じないのか。
例え今までの歴史が、戦争「7」、平和「3」の比率であったとしても、今後の歴史において人間生命それ自身の中に戦争「6」、平和「4」、戦争「5」、平和「5」、戦争「4」、平和「6」等の比率に歴史を変革していく力が在るとどうして信じないのか。
人類各個人の生命には神の心が宿っており、その神は「無限」であり、「永遠」であり、「絶対」で在る。
人類の親は、まさにこれで在る。
人類一人一人の生命の内には、全てを変革していく神という無限力が宿されている。
現状における歴史上の悲惨な結果をみて、戦争と平和の比率を「7対3」とみ、これを人間悪の証明だと主張するのは傲慢であろう。
全ては生命が生むのだ。
見られる全歴史は、見る者全人類の心の成長過程なのである。
未熟な我々の心が生み出してきた結果をみて、その当の心を悪と決めつけるのは傲慢であろうと思う。
神の子は、神の心をわが内、わず生命の中で信ずる者のことで在る。
歴史において戦争と平和が「7対3」の比率であるならば、われよりも近く、われの内に存在する神の心をもって、その比率を「0対10」にしていく、その力がわが生命のただ中に厳然と在るという真実、これを信ずる者を神への信仰者という。
神を信じない者は、その歴史の比率を決して変えようとはしないでしょう。
この変革の力が生命に在ると認めるならば、人間の存在は善であり、認めないというならば、人間の存在は悪と言っていいでしょう。
神が存在するというならば人間は善であり、神が存在しないというならば悪ということだ。
かかる論者は人間の生命の内に「7対3」の比率を「0対10」に変革していく心の力を、いかなる根拠をもって否定なさるのか。
生命は無限なりという真実は、神の存在をもってその証明とする。
人心の無限に自在なる活動は、直に神そのものを証明するのである : 西田幾多郎
ではその肝心要の神の心とは何でしょう。
万人の生命に宿っている根源的本質が神の心ですから、その神の心とは全人類唯一の普遍的な善悪の価値基準であるはずです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当している善悪の普遍的な価値基準、これを神の心と言う。
方便の善とは、神の体に比喩した善、物質に比喩した善、自我に比喩した善、利益に比喩した善、結果に比喩した善、現象に比喩した善、快楽に比喩した善、これを方便の善と言う。
しかしてこの方便の善は、人類普遍の価値基準とはなりえない。
かつて進化論の倫理学者・ハーバート・スペンサーは、こう言いました。
「現在、罪悪と称するものも、かつての時代においては道徳だったのである」
これを方便の善と言う。
方便の善を視点として善悪を論ずるならば、その善悪は時間と空間の座標軸を自由に駆け巡る。
人間の肉体が時々刻々新陳代謝を繰り返し、その体細胞が、常に停滞なき変化、運動を展開している様に、方便の善悪も停止を嫌い、不変を破壊する。
より具体的に述べるならば、人間や国家の存在という「空間」の地政学的な位置変化、並びに「時間」的経過によって善悪の価値観も自ずと変遷していく。
「時間」の観点より述べるならば、300年以上前の敵討ちと現代の相違がそれである。
日本では、300年前は敵討ちと言って、敵(かたき)を討つ行為は、自己の名誉を守る道徳的で立派な行為とされた。
しかして現代で敵討ちを実行すれば、それは単なる人殺しであり、犯罪です。
時間が300年経過するだけで、かつて善だったものが、悪となる。
善悪の価値観が引っ繰り返るわけです。
スペンサーが言うように、まさに現代で実行すれば罪悪となり、人殺しとなる敵討ちは、300年以上前、すなわちかつての時代においては、確かに道徳だったのです。
これが物質(時空)に比喩した善、すなわち方便の善です。
「時間」経過より価値が新生されていく様に、「空間」の位置変化によっても価値は変動します。
インドでは牛は神聖な動物で保護の対象となっているが、西洋や日本ではそうではない。
インドでは牛肉を食うことは悪であるが、日本では悪ではない。
また聖戦の原理がそうである。
互いの国家が自国を善とし、他国を叩き潰さねばならぬ悪とする。
人喰い人種のように人を食っても、「善」とされる所もある。
空間の位置変化によって善悪が異なってくるわけです。
善と悪は時間と空間の座標軸で変化していく。
同時代の善悪の価値観とて、時代を一つ過ぎれば、その効力は失墜する。
時空の変化と価値観の変化は相関関係にある。
それは肉体における精神の如きものである。
これが方便の善の正体であり、だから方便の善は人類普遍の価値基準とはなりえないのです。
時間と空間で変化するからです。
神の善悪が絶対的な価値ではなく、その善悪が立つ立場や時間によって相対的に変化していくのです。
過去・現在・未来の全人類にその善悪が普遍妥当していないわけです。
時空はイコール物質ですから、物質を抜けられない善悪は、人類普遍の価値基準とは言えない。
かかる場合、人間の知識、思考、概念、認識、情操は、みな相対的であるがゆえに、不滅的実在的な「神の絶対善」はないように思われる。
現代において「善」だと信じている価値も、一つ時代を過ぎれば「悪」として人間に認識されるとなれば、今まさに信じている価値観が亙解していくことになる。
信じられるものは何もなく、ただ利己的に生きた方が良いのだということにもなりかねない。
300年以上前の人間は「敵討ち」を善だと信じて実行していたわけです。
それを現代で実行すれば、それは単なる人殺しであり、悪なんですよと言われれば、少なくとも永遠の今における信仰を奪うものとなる。
それは現代人が信ずる善の価値観にもそのまま妥当するからである。
現代でもこれが正義であり、これが善であると主張する人はいます。
しかして現代、主張しているその善悪と正義は、今から300年後の2300年代の人類には悪と言われるようになるでしょう。
その片鱗は気候変動等で既に出ている。
方便の善は、物質に比喩した善であるゆえに現在、主張している善と正義は、300年後は悪と言われることになり、その現在主張している善は、実は神の目から見れば、悪を信じていたことになる。
その瞬間、現在信じている善悪の価値観が目の前で崩壊していき、信じられる価値がなくなってしまう。
これが方便の善の正体です。
だから方便の善は人類普遍の価値基準とはなりえないのです。
我々人間は神の善悪をどう認識すべきであるか。
ヘーゲルという哲学者は、各時代各地域に出てくる相対善は、絶対善に至る諸段階の善であると残しています。
かつての敵討ちが、悪と言うのではなく、徐々に歴史を通して神の善に対する認識が進歩しているのだ。
昔、敵討ちを善と認識していた当時の善悪の観念よりも、300年経過した現代の善悪の観念の方が少しづつ歴史を通して神に向かって進歩しているのだ、と捉えていました。
「時間」経過によっても善悪はコロコロと変化していき、「空間」の位置によってもコロコロと善悪は変化していく。
「時間」と「空間」、すなわち時空はイコール物質ですから、物質に比喩した善は、人類普遍の価値基準とは言えず、従って神の心とは言えない。
神の心とは、この時空を抜けた地点にのみ存在します。
これが真理の特徴であり、神の心です。
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