戦後の日本は、三つの原則によって国家運営をされてきました。
「平和主義」
「基本的人権の尊重」
「主権在民」
これがどうも神道とは相いれない思想のようで、この三つの原則をすべて破壊しようとしているように見えます。
平和主義によって日本精神のタマが抜かれて戦争ができなくなり、国民を主権者にすることによって国民の顔色を窺わなければならず、自己都合でやりにくくなり、基本的人権の尊重によって昔のように人間を虫けらのように扱えなくなった。
この三つの原則によって神風特攻隊はできず、731石井部隊のような人体実験もできず、集団虐殺もできなくなった。
すべて基本的人権のなせるわざであり、人権が邪魔で邪魔で仕方がない。
ご苦労さま。
侵略戦争もできず、現地調達もできず、生体解剖もできなくなった。
欧米が人権を主張するために、捕虜の拷問もできず、人肉食いもできなくなり、自己の本性を覆い隠し、善人の演技だけをせざるを得なくなった。
ああ不自由だ。
自分たちが支配している国のために国民の命を自由に扱えなくなり、何か自分らしく正直に実行すれば、それはすべて基本的人権の侵害になる。
だから隠れて分からないように人権の侵害を無制限に行う。
テクノロジー犯罪などは典型です。
平和主義だの国民主権だの基本的人権の尊重だののおかげで、随分と善人の演技だけはうまくなった。
本性はまた別ですから、その本性の通りに実行しようとすれば、すべて犯罪に該当してしまう。
すべて犯罪は霊的未熟から生まれるわけですが、利益と快楽を善とし、不利益と不快を悪としている。
当然、目的は利益と快楽ですから、それを求めて犯罪者となる。
快楽(悪)のために善のみを語っているために、虚栄となり、自我が最上位に置かれた東洋的専制となり、自我は利益と快楽を求めますので、その利益と快楽から犯罪が生じ、そしてそれを反省もしない。
自我を絶対化するとは、利益と快楽を絶対化するということであり、利益と快楽を絶対化するとは悪を絶対化することと同じですから、かかる者の言う悪とは不快と不利益のことを指している。
そしてその悪は「本来・悪なし」と言い、不快と不利益はなしとしているために、ただ良きことしかこないのである、繁栄しかないのである、成功しかないのである、病気はなくなるしかないのであると言う御利益信仰になる。
そして増々、利益と快楽によって連帯し、絆を作る悪の霊的集団となる。
これはすべて神の光から生ずる快楽を絶対化している点より生まれている。
これが神道の光一元思想であり、光の快楽ですから、物質に比喩した善となり、方便の域を出られなくなる。
しかして有限の善、いわゆる方便の善を無限化せんとするところに無限の悪が生ずる因が形成される。
だから無限の犯罪を犯す。
有限の範囲で救えるからと言って、知らず知らず全人類を救えると思い無限化していくのである。
こうなれば物質を無限化していることと変わらない。
基本的人権が日本精神を破壊したと、述べて炎上していた政治家がおりましたけれども、これですね。
ここでは上記の三つの原則をすべて批判しているわけですが、ことに基本的人権への批判は苛烈です。
「基本的人権の尊重」について。私はこれが日本精神を破壊した「主犯」だと考えているが、この「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。
国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。
「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。
「基本的人権の尊重」という言葉に表された思想の根底には、国家がどうなろうと社会がどうなろうと自分の「基本的人権」は守られるべきだという、身勝手な「個人主義」が存在している。
もともと基本的人権はそういった意味で降ろされている思想ではありませんけれども、確かに人権を利益にすり替えている側面はあるでしょう。
本来は神の概念が中心概念としてあったわけですが、西洋で人権を利益にすり替えた者がいたのです。
「好き勝手、神を売った、俺の人権を守れ」と、利益にすり替えたものがおります。
恐らくそういったことを批判しているのだと思いますが、基本的人権自体はそういう意味ではない。
ただ人権が日本を破壊したと見ているようですので、これを憲法において骨抜きにしようとはするでしょう。
この武藤議員は、他にも問題発言が注目されたことがあります。
これですね。
「戦争に行きたくない、なんて利己的で自分中心主義すぎる」
国家主義者ですね。
国家を絶対化して善とし、これに滅私奉公しないのは利己主義だと思っているのでしょう。
ではその国家が悪だとしたらどうするのでしょう。
国家主義は成り立たなくなりますね。
絶対の善である国家で何故、福島原発事故が起こるのでしょう。
善ならば起こるわけありませんね。
少なくとも完全な善でもありません。
だから日本は国連から未だに敵国条項に指定されているのです。
絶対の善である国家が国連から敵国として扱われていますが、ならば国連が悪と思っているはずです。
仮にそうでない場合、日本を敵国に指定している悪である国連軍に絶対の善である日本は負けたという事実は残ります。
絶対の善である国家が敗北し、敵国として指定され、それが嫌で敵国条項を削除させようとするならば、国連という悪におもねり、名誉を回復してもらうことになり、これもまた絶対化するほどの国ではないと言わざるを得ない。
国家主義は滑稽ですね。
カルトに近いものを感じます。
その国家を支配している一部の者にとって都合がいいだけであり、別に神の正義を守っているわけでもありませんし、守っていない国を絶対化するのも滑稽です。
愛国心を利権化しているのは明らかであり、これをオスカー・ワイルドはこう言いました。
愛国心とは、愚か者が振りかざす麻薬である。
国家主義は、あくまで一部の者が利権を正当化しているだけの代物だと思います。
だからこのように茶化される。
笑かしている分にはいいのですが、自民党は憲法改憲草案なるものを出しています。
特徴は色々とありますが、天皇を国家元首として明確に規定しています。
国旗と国歌も日章旗と君が代で憲法に規定しています。
平和主義を謳った第9条も改訂しています。
「武力の行使は・・・永久にこれを放棄する」から「武力の行使は・・・用いない」と変え、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」から「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」に変えています。
戦争をやろうと思えばいつでもできる憲法に変え、「国防軍」を新たに創設しています。
基本的人権については第11条において一応認めていますが、「基本的人権の享有を妨げられない」から「基本的人権を享有する」に微妙に改められています。
基本的人権は享有するが、妨げてやるということでしょうか。
人権を妨げることに含みを持たせています。
個人の権利と自由に関しては、公益、あるいは公の秩序の名のもとに制限される全体主義のような憲法になっています。
これも公の秩序、公益と言う抽象的な、為政者がどうとでも随意的に解釈可能な条項とし、それに反してはならないと強制しています。
「個人の尊重」は明確に削除され、「人の尊重」にすり変えています。
また領土・領海、並びに領空の資源確保を強制しています。
憲法に資源確保を入れるというのは他にあるのでしょうか。
少し奇異な感じがします。
ならば尖閣諸島や竹島の資源確保は憲法命令となり、他国が侵害してくるならば戦争も辞さないとなりそうです。
第72条3項では、
「内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する」
と明確に謳われています。
また第9章に「緊急事態」を新設し、1章も割かれています。
随分と詳しく論じておりますが、戦争をやりたいのでしょうか。
第10章の「改正」も変えています。
現行憲法では、両議院の3分の2の賛成で発議し、過半数の賛成による国民投票で憲法が改正されるわけですが、これを「3分の2」から「過半数」に変え、有効投票数の過半数で憲法改正ができる。
第11章の「最高法規」では現行憲法の第97条の「基本的人権」の条項をまるごと削除しています。
第11条と重複しているから削除したというのは説得力がありません。
「基本的人権が日本精神を破壊した」と上記の方も主張しているわけです。
基本的人権に関して自民党は過去も問題視していた発言がありますから、意図的だと思います。
自由や人権、平等や権利が欧米の目を気にしたリップサービス的なものになっておりますが所詮、公の秩序だの公益だのという抽象概念で、為政者がその気になれば、ご都合主義で自由も人権も平等も権利もすべて侵害できる全体主義的内容となっています。
戦前の日本を取り戻すというのは、あながち冗談ではなく、本気なのかもしれません。
個人主義がどうしても馴染めないようです。
来年の参議院選挙で自民党が3分の2の議席を取れなければ、発議すらできません。
支持率が落ちている今の状況では実際、憲法改正は難しいのではないか?
しかして早く中国との戦争にもっていかなければ、日本は中国に圧倒的な溝を開けられてしまいます。
もう手遅れのように思いますが、どうなるでしょうか?
I couldn’t resist commenting