救世主の代表と言えば、イエス・キリストでしょうが、当サイトでは過去・現在・未来に出てくる全ての救世主を、永遠に支配している「生命と物質の絶対的権威」の確立を目的にしています。
仏教やGLAの「宇宙即我の悟り」にもありますように、宇宙が神なわけです。
神の心と神の体が、全ての救世主と人類をその真理で支配しているということです。
支配しているとは、恣意や自己都合で支配しているというのではなく、神の善悪で支配しているのです。
宇宙は、神の善悪の表現体であり、神の神殿です。
従って何をもって善とし、何をもって悪とするのか、その善悪における永遠の普遍的な価値基準とは、目の前の大宇宙であると断定しています。
この大宇宙が、永遠に変わらない不変の価値基準です。
大宇宙が神ですから、やはり人類の心の物差しとは、永遠に大宇宙と自然界ということになります。
この神が現代では失われているのです。
善悪の心の物差しが失われているということです。
GLAの高橋信次氏も「正しいという心の物差しを失いますと、狂っていくんです」と言っていました。
だからGLAの時は、宇宙即我の悟りから、その心の物差しを自然界に置き、釈迦の反省法を完成させています。
全人類の変わらぬ善悪の心の物差しとは、常に大宇宙であり、自然界ですから、今回の「救世の法」では、今後人類の心がその物差しとして依存していく、この大宇宙と自然界に表現されている神の心を、どれほど正確に読み取れるか、読解できるかが、「救世の法」の完成と成就を決します。
誰も完全には読み取れず、今後の歴史を通して読み取っていくしかないわけですが、取り合えず今回は「宗教的合の時代」ですから、現代で最高度の神の法の編纂をしていく必要がある。
聖書を対象とした高等批評という文書の起源を探る批判的調査があります。
別名、上層批判とも言いますが、バイブルは一体誰が書いたのかを調査した批評です。
私もテモテ第一と第二の手紙、あるいはテトスの手紙やペテロ第二の手紙が、当時の有名人であるパウロやペテロの名前を騙って、あたかもペテロやパウロが書いたかのように見せかけた偽書であることは知っていました。
どこの馬の骨が書いたか、今もって分からないのです。
「イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。」: ペテロ第二の手紙1-1
と書いてあるわけですが、こういった点を神道系は、ペテロでも何でもない全くの別人が、堂々とペテロを名乗っているのを見ると笑えるよと揶揄しています。
茶番を演じる嘘つき達の書物からは真っ当な信仰者など生まれるはずがない、と。
特にバイブルの手紙類は酷いです。
ところがこの高等批評を見ますと、特に新約聖書は、そのほとんどが偽書であることに驚きを禁じ得ません。
テモテやテトスの手紙でも、パウロが書いたように見せかけながら、嘘をついているわけです。
ヤコブの兄弟であるユダが書いたとされる「ユダの手紙」も偽書であり、本当は誰が書いたのか分からないわけですが、ユダヤ教でもキリスト教でも正典とは認めていない偽典であるエノク書1章9節が、「ユダの手紙」の中に入っており、ペテロ第二の手紙にもこのエノク書の言葉が入っています。
これだけでも聖書は一言一句神の言葉とは言えないはずですが、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、このエノク書は偽物の書であり、神の言葉ではないと認めており、偽典として分類されている書ですが、それがちゃっかりと聖書の正典に入っているわけです。
本当の神の言葉であるならば、名前を偽る必要はないわけであり、その著者が、たとえ無名であったとしても、神の言葉にはそれ自体に価値があるわけですから、あえて当時の有名人の名前を借りて、嘘をつく必要はないはずです。
ところが実際は、どこかの誰かがパウロやペテロが書いたように見せかけているわけです。
嘘の中に神はおられませんが、何故こんなに嘘が多いのかね。
聖書は賞味期限切れでしょう。
別にイエスを否定しているわけではないのです。
確かに如来の理念と思想が語られておりますから、少なくとも如来から啓示を受けられた人物が、当時そこにいたことは間違いありません。
ゼウス神も「汝らおさな子の如くあらねば、天国の門は開かん、と当時イエスに言わせたのは、このゼウスだ」と言っていました。
高橋信次氏の時もゼウスだのイエスだのモーゼだの色々な神霊がかかって喋っていました。
ならばそれ自体、神の言葉として価値があるわけですから、嘘をつく必要性はどこにもないはずです。
無名の著者でもいいではないか。
何故、嘘をついてまでパウロやペテロの名を騙るのか?
ここら辺にイエスの弟子の未熟を感じるのは私だけでしょうか。
今後、1000年、2000年と残る法の土台となっている真理とは、多次元世界の全貌と輪廻転生の法です。
これはGLAでも説かれているし、幸福の科学でも輪廻転生は「黄金の法」で、多次元世界は「永遠の法」で説かれ、共に土台となっているはずです。
これは他の宗教団体と「救世の母体」とを画然と分けている法なのです。
他の如何なる宗教団体であれ、教祖であれ、この二つの法は真理を悟っていなければ説けないのです。
学問をやらせても、スポーツをやらせても、経営をやらせても、あるいは芸術をやらせても、同じ結果はでないはずです。
その努力や才能に比例した結果がでます。
神の善そのものを基準にしても同じです。
ある者は10の悟りを得る、ある者は50の悟りを得る、またある者は100の悟りを得る。
全く同じ神の心が等しく宿ってはいるけれども、それに向かう人類各人の努力は千差万別であり、均一な努力はなく、また全く同じ悟りを得るということもない。
それを一つの神の心から公平に評価すれば、5次元幽界・6次元霊界・7次元神界、8次元菩薩界・9次元如来界・10次元宇宙界の「多」としてあらわれる。
実在の根本的方式は、一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。 : 西田幾多郎
平等即差別、平等即公平が中道です。
多次元世界を物質観で捉え、霊的カースト制度と捉えるのは偶像崇拝に相当します。
差別観で多次元世界を捉えれば、平等を失い、平等観で捉えれば、努力への公平さを失う。
多次元世界を認識する時、差別に偏っても中道を外れ、平等に偏っても中道を外れる。
平等即差別が中道です。
平等と差別の絶対矛盾は、神によって自己同一化されている。(絶対矛盾的自己同一)
だから神の心を中道と言う。
悟りが「天」であり、神の心を悟れば、これを原因として結果、霊格が上がります。
悟りが「天」であり、霊格が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である霊格を「天」に置けば、偶像崇拝となる。
神に対する傲慢の罪を犯すことになる。
悟りが「天」であり、有名な過去世が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である有名な過去世を「天」に置けば、偶像崇拝となり、神への傲慢の罪を犯すことになる。
悟りが「天」であり、真理を悟れば、場合によっては霊能力が発現する場合もあるでしょう。
悟りが「天」であり、霊能力は「地」で、永遠に天地一体であるが、この「地」である霊能力を「天」に置けば、偶像崇拝となり、神への傲慢を犯すことになり、その者共は転落していくことになる。
これが間違っていると断定していい根拠とは、目の前の大宇宙。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体であるにも関わらず、「地」である霊格を「天」に置き、「地」である有名な過去世を「天」に置いているがゆえに大宇宙、すなわち神ご自身の目から見て間違っていると断定していい。
人は「地」を「天」に置いた時、転落していく。
神我が「天」であり、自我は相対的なものですから「地」で、永遠に天地一体です。
にも拘らず「地」である自我を「天」に置いて生き神信仰に耽れば、その宗教団体そのものが奈落に転落していくことになる。
絶対的なものは絶対的なものに通じ、相対的なものは相対的なものに通じる。
善霊は善霊に通じ、悪霊は悪霊に通じる。
この宇宙の理法は、永遠に変わらない。
多次元世界を「地」である物質観から見るのは誤り。
多次元世界は、常に「天」から見なければならない。
輪廻転生の法もGLA以降、主に霊現象で証明していったと思いますが、霊現象で輪廻転生を説けば、方便の域を出られなくなる。
輪廻転生の法は、天地一体の悟りから説かなければ無限化し得ない。
霊現象だけならば、その輪廻転生を信ずる者もいるであろうが、信じない者もいるであろう。
輪廻転生の法は、決して否定することができない天地一体の悟りから説かなければならない。
仏陀もあの世で言っておられたと思うけれども、人間は永遠の生命を持ち、あの世とこの世を循環しながら、永遠に輪廻転生を続け、魂修行をしているのだ、というこの真理に優る真理は存在しないのだ、と。
多次元世界と輪廻転生の法は、救世の法の土台であり、GLAの高橋信次氏の時はこれに反省法が入り、幸福の科学ではこれに愛の発展段階説が入っている。
GLAが「反省法」を完成したのに対して、幸福の科学では「悟り」を完成しなければならなかったはずですが、そうなっていません。
高橋信次氏まではよくやったと言っていいでしょう。
救世の法の完成と成就とは、悟りの完成と成就です。
今後、1000年、2000年と残る救世の法の土台とは、この多次元世界と輪廻転生です。
キリスト教では、この土台となる二つの法がどちらも説かれていないのです。
2000年前の教えですから仕方がありませんが、多次元世界も説かれていないし、輪廻転生も説かれていない。
現代的真理論から言えば、真理としてはこれは致命的な欠陥なのです。
だから古い宗教は賞味期限切れだと言っている。
新たな神の法を説いていかなければならない。
特に多次元世界は、最高霊域で既に一致している世界観ですから、これが主流の世界観になっていくのは時間の問題です。
人類は今後この多次元世界を探究していくのです。
この点はニュートン氏もあの世で言っていたと思いますが、今後の科学はこの多次元世界の解明なくして一歩も進歩することはないのだと断言していました。
地球の科学者の頂点に立っている神霊は、このニュートン氏の過去世であるアルキメデスです。
イエスと同じ霊格をもっている偉大な神霊です。
この意識体がそう言っている限り、何も宗教家や哲学者だけではなく、科学者も今後この多次元世界の探究と解明に向かうということです。
従ってこの多次元世界と輪廻転生を説けない宗教に未来はない。
未来の人類の認識の中では、この二つの法は、常識になるからであり、時間の問題です。
あの世、いわゆるこの多次元世界は、一即多、多即一の法則、主客合一の法則、そして不動の動者の法則から認識していかなければならず、あの世とこの世の関係論として波長同通の法則も知る必要がある。
西田哲学で説かれているように、見られる世界(客観)は、見る者の心の世界(主観)であり、主客は永遠に合一している。
見られる全世界は、見る者全人類の心の世界であるということだ。
多次元世界の各次元世界もすべてこの主客合一の法則に貫かれている。
見られる菩薩界というその世界は、そこに住む菩薩の心の世界であり、主客は永遠に合一している。
見られる地獄界というその世界は、そこに住む地獄霊の心の世界であり、主客は永遠に合一している。
西田哲学で説かれている主客合一の法則は、天界・現界・地獄界で普遍妥当している永遠の法則です。
見られる全歴史は、見る者全人類の心の成長過程です。
個人が真正の自己を知るために「人生」を歩むように、全人類も一単位として真正の自己を知るために「歴史」を歩んでいる。
ヘーゲルが言うように歴史とはそれ自体が神の世界計画です。
各時代各地域に出てくる相対善は、全て絶対善に至る諸段階の善であり、人類は世界の運動法則としての正・反・合の弁証法を繰り返し、理性の狡知に導かれながら、否応なくこの絶対精神に向かっている。
だからエマソンも、人間を通して出てくる善は、すべて神の近似値に過ぎないと言った。
エマソンも歴史における神の世界計画の意味をヘーゲルと同様、よく悟っていた思想家です。
ヘーゲルは歴史の究極目的を絶対精神と言ったけれども、これは明らかに神のことを指しています。
神と言わず、絶対精神と言ったり、カントのように最高善というのは、神という言葉を使えば、既存の宗教で言われている埃とチリのついた神の概念と混同され、誤解されるからでしょう。
哲学者達は、本当の神のことを指して絶対精神や普遍精神、あるいは最高善と言ったりしています。
そしてカントが言うように最高善は、人間には認識できない。
だからエマソンが言うように人間を通して出てくる真理は、全て神の近似値となる。
人類はこのヘーゲルが言った絶対精神に歴史を通して一歩一歩向かっていくしかない。
というか「理性の狡知」を通して無理やり向かわせられている。
今回は「神約民主論」国家の実現を通して、この絶対精神の権威、歴史の究極目的の絶対的権威を確立していくだけです。
これを実現すれば、今回の救世運動は一応終わりということです。
救世主とは人間にあらず。
この絶対精神としての神、歴史の究極目的としての神、人間生命の根源的本質こそが、真の救世主であるということだ。
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