真理関係

救世主妄想 2

救世主妄想とは、「メサイア・コンプレックス」とも呼ばれています。

メサイアコンプレックスとは?原因や治し方だけでなく対処法も! POUCHS

メサイアとは、救世主を意味しています。

救世主とは、人を助けるという意味を持っていますが、メサイアコンプレックスとなると良い意味では使われません。

人を助けたいというその気持ちの裏には、自分がヒーローになりたい、自分が目立ちたいという、いわゆる偽善者のような考え方を持っている人なのです。

宗教の世界では、あっちの宗教でも、こっちの宗教でも、至るところでよく見られる救世主さまですが、本当の救世主であったとしても、それは真理上方便の善の域を出ません。

悟りが「天」であり、救世主が「地」で、天地一体です。

「地」である救世主を「天」に置けば、それは地獄の創造主となります。

神が救う世界から救世主という人間が救う世界となり、本末転倒となるのです。

あくまで全人類単位の救済を主張するならば、如何なる救世主と言えどもその全人類単位の救済はできません。

地上人間の10倍以上の認識力を誇っているあの世のハイスピリットでさえ、たった一人では全人類の救済はできないのです。

いわんや地上人間如きに人類の救済は不可能です。

では本当に全人類救済は地上界ではできないのかと言われますと、神を中心に持って来れば可能です。

というか人類にはそれ以外の選択肢はない。

今回一人残らずの全人類救済法則も説いておりますが、今後の人類がこの法則の通りに霊的な進化・向上を遂げていけば可能です。

歴史と共に徐々にこの絶対の法則の真価が発揮されていくでしょう。

今までの宗教で言われてきたような方便の神ではなく、真の神を中核に据えれば可能と言いますか、それ以外の選択肢がない。

救世主と救世主ではない者の生命の本質は神の存在において一つです。

救世主の生命の本質にも神はあり、救世主ではない者の生命の本質にも全く同じ神の心が宿されている。

救世主と救世主ではない者の絶対矛盾は、神の存在において自己同一化されている。(絶対矛盾的自己同一)

この神を持って来れば一人残らずの全人類救済は、いつでも可能です。

逆から言えば神への信仰なくして全人類救済は、永遠に不可能だということです。

無神論者ほど無責任な人間はいないのです。

知らないのならば、知らない方が悪いのです。

この点、あの世でモーゼもゼウス神も述べておられましたが、80年生きて善を知らなかった、愛を知らなかった、神の心を知らなかった、自分を知らなかった、このような者が許されることはない、と。

そんなクラゲのように何も知らないまま、ただ漂っているような者が許されることはなく、知らないことそのものが最大の罪なのだ、とそう言っていました。

神道の方はとっくの昔に手遅れですが、人間の自我はその知識・思考・概念・認識・情操、すべて相対的な性質しかもたされていません。

神なくしてこれだけならば、その相対性が作り出す社会とは、無限の矛盾と対立に満ちた社会です。

神の存在なくば、この矛盾と対立が解消されることは永遠にありません。

神とは思惟の根底にあって統一している或るもの : 西田幾多郎

今回の救世事業とは「法の編纂」と「神約民主論」国家の実現を通して、この生命の本質である神の絶対的権威を確立することです。

過去・現在・未来の三世に出てくる天界・現界・地獄界の全霊人は、神の存在においてのみ平等だということです。

平等はこれ以外にありませんから、これ以外はすべて差別相です。

平等を認めることと神の存在を認めることとは同義です。

ここ以外に平等はないからです。

平等という限り、過去・現在・未来の三世に出てくる天界・現界・地獄界の全生命体が有するもののうち、その自他に微塵も差異があってはならない。

完全に同一であり、完全に同質であり、完全に同規模であり、完全に同量でなければ、それを平等とは言わない。

それは我々人類にはたった一つしか与えられていない。

肉体を捉えても顔形や指紋、体形から生理現象に至るまで悉く同じ肉体はない。

人格を捉えても、個性の相違ゆえに全く同一の個性などは存在しない。

死の下における平等も厳密に言って平等ではない。

ある者は20代で死に、ある者は70代で死ぬ。

法の下における平等も存在し得ない。

法は各地域によって異なっているものであり、また時間の経過と共に現象無常で変化していくものである。

変化していくものの中に、不変の平等は存在しない。

人類はその生命の根源的本質に全く同一同質同量同規模の一つの神の心を宿している。

この双方に宿っている神の心は、自他の比較において微塵の差異もない。

完全永遠に同一同質同量同規模です。

だから宗教ではここを見て自他一体の悟りが出ている。

神においてのみ全人類は永遠に平等であるということだ。

これ以外は人格と肉体共にすべて差別相です。

神の存在を否定すれば、全てが差別相になり、人類はその共通性を失うということだ。

外界に基準を置いた神の体の下における平等も存在しない。

民主主義における平等は、物質に比喩された方便の平等であり、真の平等とは言えない。

ここでも物しか分からん人類の未熟が出ている。

過去・現在・未来の三世に出てくる天界・現界・地獄界の全生命体が有するもののうち、平等というならば、そこには微塵も差異があってはならない。

これは神の存在だけです。

そしてこの神の存在を否定するならば、我々は平等を失い、平等を失うということは人類の共通性を失うということであるから人類は普遍的価値の一切を失う。

宗教や哲学、思想や芸術の価値の一切を失うことになる。

平等を認めることと神の存在を認めることとは同義。

従って平等を認めるならば、というかどうせ人類は認めざるを得ないわけであるが、神への信仰は義務となる。

実は今までも本当は義務であった。

そしてこの平等の神の心は、人民共通の利益ではなく、人民共通の人生の意義です。

民主主義で言う人民共通の利益など、実は存在していない。

人類各人が平等の神の心に従って自由を行使した時、真理は汝を自由にせん、全人類は自由となる。

歴史とは、自由の意識の進歩 : ヘーゲル

歴史とは真理による「自由の意識の進歩」がその本性です。

民主主義で矛盾している二大概念である「自由と平等」は、こうして神の存在によってアウフヘーベンされる。

「神約民主論」国家では、人民共通の利益から人民共通の人生の意義へと質的転換を促す政治体制であるから当然、人生の意義である神の心が「天」に置かれ、神の体は「地」に置かれる。

そして眼前の大宇宙の構造や仕組みと一致し、宇宙即我の文明となり、仏国土が顕現する。

従ってこの「神約民主論」国家を実現した文明と国家が、今後千年の世界盟主となる。

「地」である国益(神の体)を「天」に置いているため物質の属性の通り、わずか100年の有限の期間しか覇権が取れないような政治体制ではない。

この世界盟主は、神の心を「天」に置いているがゆえに最低1000年は続く。

そして今後の人類も求めるであろう「自由と平等」が、正確な概念に戻り、全人類は神と共に幸福になっていく。

幸福な世界とは、その文明に属する者が一人も地獄に堕ちることなき世界であり、文明です。

地獄に堕ちれば不幸です。

神の心を悟れば幸福、悟らねば不幸。

天国と地獄、人類の幸不幸を分ける心が、これ神の心。

神の心が「天」であり、人間の心が「地」で、永遠に天地一体です。

モーゼもこの点を言っていたと思うが、正法とは神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです、と。

神の心たる「天」とおのれの心たる「地」を同じくするという天地一体の悟りを得る。

宇宙たる「天」とおのれの心という「地」を同じくするという宇宙即我の悟りを得る。

神たる「天」と人たる「地」を同じくするという神人合一の悟りを得る。

真理とは、ただこれだけです。

宇宙即我の悟り、天地一体の悟り、神人合一の悟り、これらは同じ悟りを別角度からそれぞれ説いた悟りに過ぎない。

それは神の心とおのれの心を合一させよということだ。

では神の心と人の心が合一すれば、どうなるか?

かく最深の宗教は神人同体の上に成立する。

人生の意義はこれを掴むにある : 西田幾多郎

絶対地獄に堕ちることなき神の心と人間の心が合一すれば、どうなるか?

そう、その人間もまた神と同様、絶対地獄に堕ちることなき自己となる。

天国に帰天すれば幸福。

地獄に堕ちれば不幸。

ではその絶対地獄に堕ちることなき神の心と全人類の心が合一すればどうなるか?

そう、その全人類もまた神と同様、絶対地獄に堕ちることなき全人類となる。

一人も地獄に堕ちることなき文明と国家の創造、これ仏国土顕現。

一人も地獄に堕ちないわけですから全てが幸福です。

これが仏陀の言われていた全人類幸福化運動の本義。

神への信仰なくして神の国はできず、エデンの楽園もできない。

仏の心を知らずして、仏国土はできない。

神仏への信仰なくして、何ができるか?

目の前の世界と文明にあらわれているではないか。

人類の半数以上が地獄に堕ち、人間だけではなく多くの生物種も滅び、気候変動まで引き起こし、なおかつその無責任な世界を何の罪もない未来の人類に背負わせようとしているではないか。

無門関第7則に「趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)」という公案がある。

新米の雲水が、趙州和尚に尋ねるわけです。

「趙州和尚、私は新参者ですが、仏教ギリギリの奥義を教えて下さい。」

すると趙州和尚は、「お前、朝めしは食ったのか」、と聞き返します。

雲水は、「はい、食べました」と答える。

趙州和尚は、「ならば茶碗を洗いなさい」

そこで雲水は、はっと気づいた、という公案です。

富を食ったら食いっ放し、国益を食ったら食いっ放し、自然界を荒らし回ったら、荒らし回りっぱなし。

食ったら、ちゃんと茶碗を洗いなさいという公案です。

富をむさぼるのは、何かが欲しいからでしょう。

自然界をむさぼるのも、食い物のためでしょう。

国益を「天」に置いてむさぼり、生態系を破壊するのも食い物のためでしょう。

食ったら、茶碗を洗いなさいという公案です。

たとえ豪華なフランス料理でも、洗っていない皿に盛られれば、それは誰も食べないのです。

食ったら食いっ放し、むさぼったらむさぼりっぱなしで、茶碗を洗うということができない。

食ったら皿を流し台に置きっぱなしにし、また次の食い物をむさぼっている。

むさぼったら、また放り投げて、次の獲物をまた荒らし回っていく。

自然界をむさぼり、自然界を汚い皿にして放り投げている。

食ったら茶碗を洗いなさいということです。

趙州和尚は、ちゃんと仏教の奥義を教えています。

心の皿をきれいにする反省を教えているのです。

これが無門関第7則「趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)」です。

題名から少しそれましたが、もう少しこの題は続きそうです。

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