宗教の世界では、この「救世主」を名乗る者が多いわけですが、この救世主とは何かを真理的観点から定義しておいた方がいい。
最初に救世主を名乗ったのはイエス・キリストでしょうが、霊言でも「我はそれなり : ヨハネ4-26」と明確に名乗ったと言っていました。
ただイエスの当時は「メシア」とは救世主の意味ではなかったはずであり、単に「油を注がれたる者」、すなわちメシアとは「ユダヤ人の王」という意味だったはずです。
ユダヤ人の王とは、ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」です。
従ってキリスト教とは、日本語に訳せば「ユダヤ人の王さま教」です。
・・変な名前。
それを救世主として宣言したと言っていた。
ちなみに2000年伝道しても全然、世は救われていませんけどね。
人類は半数以上地獄に堕ちるわ、気候変動で地球は崩壊寸前だわ、イエスは救世主ではないと立証されているような世界になっています。
このイエスを真似て宗教の世界では、みずからを救世主と宣言する者が多い。
自己顕示欲以外の何ものでもない。
救世主というのは、真理的に言えば、三宝帰依と同様方便の善です。
それなりの高度な悟りをもって救世主を宣言するならば、結果に比喩した善、すなわち方便の善として有限の範囲で許容できる。
悟りが「天」であり、救世主が「地」で、天地一体です。
宗教界における救世主さまの問題点とは、これを逆にしている点です。
救世主を「天」に置き、悟りを「地」に置いているため、大した悟りも持っていないのに救世主を名乗る。
またそれなりの悟りをもっていることが大前提ですが、たとえその高度な悟りをもっている前提で救世主を名乗ったとしてもそれは所詮、方便の善に過ぎない。
それを方便ではなく、「天」に置いて無限化していけば、完全に救世主妄想にとりつかれた精神病理学上の対象となる。
救世主がどんな高度な悟りをもっていようが、その人間に過ぎない救世主に世を救う力はなく、世を救うのは神の心であって救世主ではない。
人間に世を救う力はなく、神の心のみが救いうる。
キリスト教は、救世主を「天」において無限化しているようなところがありますが、それは救世主宣言は、有限なる多様な教えの一つとして、また一つの個性としてあってもいいけれども、救世主信仰となれば、それは邪道だと言わざるを得ない。
三宝帰依と同様、無限化すれば、それは地球独裁者となる。
一方で救世主宣言をし、他方で全人類救済を掲げるならば、それは全人類がその救世主を信仰しなければならなくなる。
神への信仰ではなく、人間を信仰するようになるのです。
救世主信仰なる信仰は、明らかに誤りです。
一人残らずの全人類救済法則を知らない方がする誤った信仰です。
だからそれは目の前の世界で実証されている。
救世主は方便の善であり、その有限の範囲を超えて逸脱すれば、それは中道を外れることになる。
中道とは、これ神の心。
すなわち神の心を外れることになる。
悟りが「天」であり、神の心を悟れば、これを原因として結果、救世主となる。
この結果に比喩した善です。
方便ですから救世主は目的にもしないけれども、否定もしない。
目的と否定の両極端の中道に入らず、救世主信仰と称して目的としたり、あるいはそれなりの真理を悟っていれば、もちろん人を救うでしょうから、それを否定すれば、どちらも中道を外れることになる。
救世主を名乗る方は、まずその悟りの実質をこそ問われなければならない。
そして事実、高度な悟りを有していたとしても、なおその救世主に世界を救う力は有限の範囲でしかない。
有眼の範囲を逸脱して方便の善を無限化すれば、それは地獄の創造主への道となる。
全人類を一人残らず救えるのは神のみであって救世主ではない。
だからその救世主を名乗る者の救世主宣言などどうでもいいけれども、その救世主がどれほどの真理を説いているのか。
その実質を見性しなければならない。
救世主を無限化して個人崇拝に走っているような宗教は、すべて中道を外れている眉唾宗教です。
世に我は救世主なりと名乗り、大衆を惑わしている者が多いけれども、救世主とは正当なものであれ、それは方便の域を出ません。
えてしてそれは神を信ずるのではなく、救世主を信ずる人間への信仰にすり替わっていきます。
手かざし宗教にしろ、あれも間違いですが、その淵源を辿ればキリスト教でしょう。
まるで神の光や霊能力で悪霊が取れると勘違いしている。
救世主信仰は、物質を「天」に置いている誤った信仰であり、またその救世主に依存させようとする他力信仰の側面が強い。
救世主という甘い言葉で人さまを誘惑しているわけです。
誘惑を来たらせる者は災いです。
無限化していいいのは、神の心とその悟りであって救世主ではない。
救世主の生命の本質と救世主ではない人の生命の本質は、神において直ちに同一です。(絶対矛盾的自己同一)
何の相違もありません。
信仰とは神の心を信ずることを言うのであって、人間を信ずることでも、救世主を信ずることでもない。
神の心を悟れば、これを原因として結果、救世主となる。
救世主とはこの結果に比喩した善であり、物質に比喩した善です。
善の有効範囲は、物質の属性の通り「有限」です。
ところが宗教界を見れば、まるでこの有限の範囲を逸脱して、無限化しているような者達ばかりです。
だから救世主を名乗る者に碌な者はいない。
キリスト教を広げれば、広げるほど全世界が腐敗する原因と理由もこれなのです。
神を信じているのではなく、イエス・キリストへの個人崇拝に耽っている。
ひたすらイエス・キリストを拝みましょうの同好会クラブのみなさんです。
そうやって神を無視して、神を拝まずにイエスを拝めば、拝むほど世界は腐敗していくことになる。
目の前の世界を見てみるといい。
それがあらわれている。
救世主を認めないわけではないけれども、あくまで善の有効範囲は有限です。
ところが20億人も広げている。
明らかに無限化しているわけです。
すると当然、悪も無限化してきます。
ヨーロッパの上に立っている者の責任でしょうね。
ヨーロッパに入れたからキリスト教は全世界に広がったのです。
2000年のキリスト教の血なまぐさい歴史を、イエスを磔にすることを通して大日意識は、いつも未然に防いでいるのです。
今回も恐らく大日意識でしょうが、エル・ランティの背後で巨大な意識体が動いていましたが、未然に防いでいます。
あのままやっていれば、恐らく無茶苦茶やったのです。
キリスト教を西洋の宗教と勘違いしている人が多いけれども、キリスト教はイスラエル、東洋の宗教であって西洋の宗教ではないのです。
だから西洋の白人はアブラハムの子孫でもないし、エルサレムは白人の約束の地でもないのです。
にも拘わらず遠い遠い中東までテクテク歩いていってエルサレムを奪いに行っています。
この宗教は大衆を扇動するのが特徴ですからね。
今回も1991年にイエスは、いきなりアメリカの低い霊域に降りて、お金で釣っていました。
初めは何のことやらさっぱり分からず、お金で釣っていけば地獄はなくならないでしょう、何やってるんだ、と言いました。
ゼウス神は、1990年代は、お金で世界が良くなることはない、あのバカ放っとけと放っておきました。
するとずーっとお金なのです。
ずーっと、ずーっと、お金で釣るのです。
大衆は絶対お金で釣れるとタカをくくっているのです。
この霊は神を信じている霊ではなく、大衆の弱さ、未熟を信じ切っている霊です。
幾転生で磔や生き埋めにされてきましたから、人間不信になっているのでしょう。
真理を語って生き埋めや磔にされるならば、お金と権力で釣ってやろう、と。
ゼウス神が気づいたのは、21世紀に入ってからです。
イエスはずーっとお金で釣るのです。
今も釣っています。
さすがにこれは異常だ、と、これは尋常じゃない、と、ようやくヨーロッパの上が気づいたのが21世紀に入ってからです。
そして重い腰を上げたのは21世紀に入ってからなのですね、ほんと遅い。
キリスト教はカルトなのです。
処女から生まれたなんて、こんなこと俺が言ったら一発でカルト指定です。
私が言ってカルト指定されるならば、その同じ基準に従ってイエスが言ってもカルトなのです。
一方で私が処女から生まれたと言えばカルトとなり、他方でイエスが言えばカルトではないというならば、それは如何なる意味においても理性的な判断とは言えない。
処女から生まれたと言っているのはイエスであって当方ではない。
処女から生まれたなんて、こんな嘘を人さまに信じ込ませる宗教は、カルトだと言っている。
だからそれを信じさせているならば、キリスト教はカルトなのです。
カルトとは神を信じたことがないのに信仰を語る宗教です。
神を信じたことがない教祖は、必ず自己都合で法を説いているのです。
神我が「天」であり、自我が「地」で、永遠に天地一体です。
カルト教祖は、この自我を「天」に置いて自己都合で法を説いておりますので、必ず物質に支配されており、物質を「天」に置いています。
悟りが「天」であり、世界平和が「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である世界平和を「天」に置いて絶対化している。
絶対平和主義です。
キリスト教のクウェーカーですが、物質を「天」に置いている。
自我を「天」に置いているからそうなる。
悟りが「天」であり、非暴力が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である非暴力を「天」に置いています。
キング牧師ですね。
これもキリスト教ですが、要は御利益を「天」に置いているのです。
悟りが「天」であり、書物が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である書物を「天」に置いている。
一言一句神の言葉という聖書第一主義ですが、これも物質を「天」に置いている。
一言一句が神の言葉でなかった場合、それは神の名を語って嘘を信じ込ませていることになるのです。
物質の属性には、「結果主義」があります。
物質宇宙は神の表現結果です。
この生命が向上すれば、これを原因としてあらわれる結果を拝ませている。
聖書第一主義、絶対平和主義、非暴力、すべて結果、すなわち物質を拝ませている。
これはイエスが自我を「天」に置いている証明です。
自我を「天」に置くから物質も「天」に置かれるのです。
そして物質の属性をもった思想と行動を取る。
物質の属性には「利益性」があります。
神への信仰と悟りによって生命が進化・向上した時、これを原因として結果あらわれる物質を「利益」と言います。
自我を「天」に置いた教祖は、物質も「天」に置かれておりますので、利益を「天」に置いた思想と行動を取ります。
だからいきなりお金や株で釣っていったのです。
そしてずーっとお金です。
また物質には神の心から遠いという属性をもっておりますので、自我を「天」に置いた教祖は、この遠位性に支配されておりますので、神の心から遠い者、すなわち大衆をターゲットに利益で釣り始めます。
だからこの神から遠いという属性からいきなり低い霊域に降りて行った。
また物質の属性には、質ではなく、「量性」がありますので、自我を「天」に置いた教祖は、物質に支配されておりますので、この「量性」をもった思想と行動を取ります。
量の多い霊域とは、低い霊域の方々です。
だからこの「量性」から下の数の多い大衆を扇動しようとする思想と行動を取るのです。
あるいは物質の属性には「弱性」があり、要は肉体や物質とは地上人間にとっては弱みなのです。
自我を「天」に置いた教祖は、物質に支配されておりますので、この「弱性」、すなわち人の弱みに付け込むという思想と行動を取ります。
お金で釣るというのは、要は人の弱みに付け込んでいるのです。
アメリカ人によくある弱い者イジメもこの属性によっている。
要は傲慢だということです。
利益性、外部性、弱性、遠位性、量性、結果主義、従性、相対性、神の光の快楽性、イエスはカルト教祖の特徴をみな持っている。
マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書の法にもその性質は出ている。
行いは歴史にも出ています。
信仰も悟りもないのに、やれ世界平和をよこせ、やれ非暴力の世界をよこせ、やれ人種差別をなくせ、などと利益だけをむさぼろうとするのは、要はこの霊はエゴイストだということです。
真心と優しさを込めて人さまをお金で釣るわけないでしょう。
人さまをお金で地獄に誘導しているのは、そうまでして自分を偉いと言わせたいからです。
人を支配したいのです。
だから高い霊格をもった者が生まれた時には、必ず自分を批判させないように、むしろ称賛させるようにあの世で干渉してきているのです。
だから無批判できている。
霊格の高い者の批判を封じれば、後は大衆などは簡単に利益で釣れる。
高度な真理を説いても、大衆は良く分かりませんからね。
大衆相手ですと真理の質で勝負する必要がない。
救済も適法性であり、神の心を心として救済を言っているのではなく、救済を言えば人が釣れて、自己の利益になるから救済を言っている。
神我の徹底展開と自我の徹底展開、善の徹底展開と悪の徹底展開は、目に見える物の世界では同じですからね。
明らかに神の心を心としないで、自己都合でやっているということです。
これだけではありませんが、イエス・キリストのことならよく知っています。
10年も20年も干渉されれば、こちらもバカではないわけですから、否応なく分かります。
要は自分を偉いと言えと言っているのです。
まず偉大な者は、そのような異常な行動はとりませんし、恐らくしたこともない。
よく幸福の科学にイエスの性格は反映されていると思う。
野放しにしてきたため、このイエスの性質が色濃く現文明に反映されています。
「地」である富を「天」に置いた資本主義。
「地」である国益を「天」に置いた政治家。
「地」である大衆を「天」に置いた民主主義。
「地」である矛盾を「天」に置いた「自由と平等」。
すべてイエスと同様、物質が「天」に置かれている。
実に傲慢な文明であり、腐るのは当たり前。
神の上に自己を置いているわけですから、どうしようもない傲慢です。
こんな霊が天上界にいるならば、そうそう地獄はなくならない。
利益を「天」に置き、真理は物のように利用する対象としており、利主神従の地獄の創造原理を実践しています。
神の心ではなく、「地」である神の光を「天」に置いて力の支配をしている。
どこかで完全に切る必要があるでしょうね。
アメリカのお金と権力、そして株価でどうぞお幸せに。
詳細は「救世の4原理」の方に譲ります。
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