Report No.512
仏教も方便の教えになっておりますが、キリスト教も方便です。
方便の真理とは、自我に比喩した善、物質に比喩した善、結果に比喩した善、快楽に比喩した善であり、物質に比喩しているため有限の善なのです。
この方便の教えは「地」の真理であるため救えないわけですが、これが古い宗教の限界なのです。
いくら大如来とは言え、2000年前、2600年前と言いますと、そうなってしまうのです。
これはある意味どうしようもないことです。
実相の真理が「天」の真理であり、方便の真理は「地」の真理です。
「地」を「天」に置けば、天地が切れます。
天地一体が善であり、天地の分離が悪、ないしは方便です。
方便の真理で世界の救世ができないのは、これは「地」の真理だからです。
救世の法が、サイト主さんと智的霊系団により維持発展されていることに、大宇神、太陽意識、大日意識に対し、心底感謝します。これが、ほんとうの新文明の幕開けになるのであれば、残りの人生、「球拾い」でもよいので、何らかのお手伝いをさせていだけるようになれるなら。。と思う今日このごろです(ただ、旧宗教、GLA、HSのように「宗教の組織化=人格神や神の体を目的とする宗教の地獄化」が、人類史において、飽きることなく、バカのように、頭を抱えるほどに、いいかげんにしてほしいほどに、繰り返されてきてたため、組織化をしてほしいと思っているわけではありませんが)。
本記事の自分なりのまとめです。
あの世がこの世を救い、潜在意識が自我を救う。これを釈尊は「この世とあの世を貫く幸福」との教えで説いた。大宇中神の心を本音として生きている高級霊と同一する正しき心であれば、この世とあの世が貫かれ、あの世のイデア価値が啓示され、主客合一の法則によりこの世に顕現される。
しかし。。「この世とあの世を貫く幸福」をORさんは、今振り返ると、ほんとに、おっしゃる通り、「この世でもウハウハでハッピーで、あの世でもウハウハハッピーで行こうぜぃ。」的なノリだったなあと思いました。。あの世的幸福(正しき心の探求)があって、この世の利益や幸福が付随的に実現がされるという順番ではなく、「イエスのようにこの世に敗北せず、まず、この世の成功や富や地位を実現して、かつあの世もハッピーで行こうぜぃ。」というノリだったんだとわが身を振り返っても思います。。はぁ。。。。