「日々、正しき心を探究する意欲を有する者」
これが幸福の科学の原点です。
幸福の科学はここから始まっています。
モーゼも正義とは、神の正しさであると言い、正法とは神の心とおのれの心を同じくする、ただこれだけなんですと言っていました。
神の正義とは、自己のご都合主義や好き嫌いの善悪ではなく、いわんや利益と国益が基準となっているわけでもない。
富と国益を増やせば善、減らせば悪と言った神の体を基準とした善悪を言っているのでもない。
これは神の体(物質)を拝んでいる「偶像崇拝」に相当する。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするというのも、天地一体の悟りのことを指している。
神の心が「天」、おのれの心が「地」で、永遠に天地一体です。
神の心たる「天」とおのれの心たる「地」を同じくする、すなわち天地一体の悟りを得る、正法とはこれだけですと言っていたはずです。
個人の人生も正しき心の探究と悟り、並びに実践によって始まり、これに終わる。
人類全体も正しき心の探究と悟りによって始まり、これに終わる。
歴史の全体も正しき心の探究と悟りによって始まり、これに終わる。
正しき心とは、これ神の心。
過去の人類も一人の例外もなく正しき心を求め、現在の人類も正しき心を求め、そして未来の全人類も例外なく正しき心を求める。
正しき心とは、神の心そのものであるから、過去・現在・未来の三世を超えている永遠の心です。
幸福の科学も、この正しき心の探究と悟りに始まって、これに終わらなければならない。
物質宇宙は神の表現体であり、神の体である : 高橋信次
宇宙は正しき心の表現体であり、多次元世界も正しき心の表現体です。
正しき心は、何も主観にのみ存在している心ではない。
この正しき心を、宗教では神我顕現、実相顕現、中道に入ると説かれてきましたが、何も主観にのみ表現されているわけではない。
近代、神の思想を説かれた方は、この正しき心は、客観の世界に現実化されているとみな説いています。
エマソンは、その象徴主義において神の心は、自然界の対象や事物に象徴されているのだ、という象徴主義を説きましたし、西田哲学では、自然界や宇宙の現実そのままが真理であると説かれています。
欧州の頂点の思想と言ってもいいが、ヘーゲル哲学では、理性的なものは現実的、現実的なものは理性的と説かれ、ゲーテにおいては、自然界の事物や対象は、すべて神の一大ポエムなのだ、宇宙とは神の一大ポエムであると説かれてきました。
ヘーゲルにとって理性とは、神の心そのものですから、要は神の心は自然界に現実化されている、実に現実的なものであり、自然界や宇宙という現実的な存在には、神の心があらわれているのだと説いています。
近代、神の思想を悟られた方は例外なく、この眼前の大宇宙と自然界にのみ神の心は現実化され、象徴され、表現され、あらわれている点を悟っています。
自然界は法のあらわれである。
人はこの法をもって思いと行いを正せよ : 高橋信次
近代、神の思想を悟られた方と比べて、GLAでは独特な悟りとなっていますが、自然界と大宇宙にのみ神の法はあらわれている点を、やはり悟っています。
ここら辺が如来の共通した悟りの理念です。
中でもヘーゲルの場合、単に空間論的に神の心を悟っているだけではなく、時間論的にも神の心を悟っている。
この点はヘーゲル哲学の項で既に述べておりますので繰り返しませんが、ヘーゲルはこの人類内部にあって突き動かしている「理性の狡知」を見抜いた時、歴史とは神の世界計画なのだと明確に悟った。
これはヘーゲルの『歴史哲学』で述べられている通りです。
今回、従来の神の思想を説かれた方々と決定的に異なっているのは、あの世を明確に正しき心の探究として対象化している点です。
従来、神の思想を説かれた方は、あの世を明確には説いていないわけです。
眼前の大宇宙や自然界から直接、神の思想を悟られている。
ある意味、この世的なのです。
今回の救世の法では、この世だけではなく、あの世の多次元世界まで明確に今後の探究の対象とするということであり、この点が従来の神の思想を説かれた方との決定的な相違と言えます。
この点はニュートン氏もあの世で述べておられましたが、今後の科学はあの世、つまり多次元世界の探究なくして一歩も進歩することはないのだ、と明言しておられました。
宇宙も正しき心の表現体であり、多次元世界も正しき心の表現体です。
この世とあの世、この神の造られた世界にのみ神の心はあらわれているわけです。
幸福の科学では、あの世で高橋信次氏もこれを最初から主張していました。
「今、大川隆法らにやらせようとしているのは、全体の法の編纂である。
個の法は、私の法でもう8割尽きています。
大川隆法にやらせようとしているのは、私が説けなかった個の法の残り2割と全体の法の編纂である。
全体の法とは、この大宇宙の構造と仕組みを解くのみならず、多次元世界の構造と仕組みまで解かそうとしている。
これを急遽、やらせようとしている」
大宇宙と多次元世界に表現されている正しき心を読み取っていけ、と。
これが救世の法なのだということです。
これを正確に読み取った法を救世の法というわけですが、正確に読み取れていた場合、宇宙と多次元世界を読み取っているわけですから、その正確な認識を通して大宇宙と自己が心を通して限りなく一致してくる。
彼が私に言っていたのは、要は全体の法とは、人類全体がこう思って、こう行うと自然界と世界はこうなっちゃうよという法なのだ、と。
人類全体がこう思って、こう行うと自然界と世界はこう悪くなり、こう思って、こう行うと自然界と世界はこう良くなりますよ、という法です。
これはこの世的には大宇宙と自然界、あの世的には多次元世界の各段階の悟りとその構造と仕組みを読み取るしかない。
その構造と仕組みと合致しない思いと行い、すなわち神の心と離れた心が自然界と世界を悪化させており、その構造と仕組みと一致した心が、自然界と世界を良化していく。
だから幸福の科学では、第一段階としてまず宇宙と自然界の構造と仕組みの解明、並びに多次元世界の構造と仕組みの解明を期待されていたわけです。
この構造と仕組みの解明によって、次に人類の心の在り方や法制度等が、その構造と仕組みと一致しているのか、いないのかを判定できるようになる。
これは宇宙即我の悟りを有した如来以上の霊格をもった者しか読み取れません。
まだ梵天以下では読み取れないし、また説くことも許されていない。
この正しき心とは、その教祖の自己都合の善悪ではない。
正義とは、神の正しさであり、自我の正しさではないわけです。
自我は、霊格高き者も低き者も関係なく、その知識・思考・概念・認識・情操、すべて相対的な性質しか持たされていません。
その自我の相対性の中に真実はないのです。
つまり我々人類の側に真実はない。
真実とは神の心の中にしかないわけです。
従って神への信仰とは、換言すれば、真実への信仰のことを指します。
原則、信仰なき者に真実はないのです。
聖人を仮に定義するとすれば、聖人とはその見かけの完璧性にあるのではなく、その絶対の真実性の中にある。
真実を真理といい、現実と言う。
神我が「天」であり、自我は「地」で、永遠に天地一体。
正義が「天」であり、利益と国益が「地」で、永遠に天地一体。
生命が「天」であり、物質が「地」で、永遠に天地一体。
幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体。
仮にこの通り生涯その方が生きられましたらならば、これがヒンズー究極の悟りである梵我一如であり、仏教でいう宇宙即我の悟りとなります。
自我や利益、国益や快楽、物質や力が、永遠に「地」に置かれている理由は、これらはすべて相対的なものだからです。
だから永遠に「地」なのです。
ところが我々の文明は、これを「天」に置いているのです。
実に傲慢な文明です。
つまり大抵はこの大宇宙の構造と仕組みの通り生きられないということです。
霊的に未熟な方は、どうしても利益や快楽を「天」に置いて、宇宙の構造と分離していきます。
そして全世界が腐敗していく。
宇宙即我が善。
宇宙との分離が悪。
自我のままに生きますと、その自我の相対性と同じく物質の相対性がリンクして、物質の属性を有した思想と行動を取ります。
苦楽を捨てて中道に入れ : 高橋信次
苦悩も相対的、快楽も相対的であり、これは神の体、いわゆる物質を心の物差しとした時に生ずる心の動きであり、偶像崇拝に相当します。
GLAでは中道とは、神の心であると言っていたと思いますが、中道に入らなければ、苦楽の相対性に支配される。
神の心を拝むことを信仰と言い、神の体を拝むことを偶像崇拝と言います。
神の体を拝むとは、物質を「天」に置いている姿であり、別の言葉で言えば神への傲慢とも言います。
偶像崇拝とは、神への傲慢のことを指し、いつのどこの文明でも、この神への傲慢によってその文明は滅び去っていきます。
現代の文明も富という相対的なものを「天」に置き、国益という相対的なものを「天」に置き、自我という相対的なものを「天」に置いて生き神信仰に耽り、物質を「天」に置いて神への傲慢にふけっている。
望んではおりませんが、仮に世界が崩壊するとしたら、その原因は、この神への傲慢です。
過去のすべての文明も、この神への傲慢によって滅び去ってきたのです。
神への傲慢は、神の心への信頼の欠如から生まれています。
正しき心が信頼できないから富と国益を追うのです。
宇宙は神の神殿であり、地球は神の聖地です。
神殿とは、神の心を信じ、悟り、学び、祈る場所なのです。
お金儲けをする場所ではないわけですね。
その地球という神の神殿で富と国益を追っているわけです。
物質を「天」に置き、生命を「地」に置いて、天地分離している。
富と国益を「天」に置き、真理を「地」に置いて天地分離している。
自我を「天」に置き、神我を「地」に置いて天地分離している。
これが間違っていると断定していい根拠とは、目の前の大宇宙(神の存在)。
眼前の大宇宙は、生命が「天」であり、物質は永遠に「地」なのです。
にも拘らず、我々の文明は富と国益を「天」に置き、真理を「地」に置いているがゆえに大宇宙、すなわち神ご自身の目から見て間違っていると断定していい。
我々人類に与えられた唯一の普遍的価値基準であり、永遠の心の物差しは、常に、そして永遠に大宇宙として目の前に在る。
そして大宇宙とは正しき心の表現体であり、神の体です。
この大宇宙や多次元世界にのみ表現されている、この正しき心、これを解明した法を「救世の法」と言う。
これが幸福の科学と当サイトが諸神霊から期待されていることですね。
どこまで解明できるのか?
誰も完全には解明できないのです。
全歴史を通して一歩一歩着実に解明していくしかない。
これが仏陀の「正しき心」ということです。
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