宗教とは読んで字の如く「宇宙が示す教え」です。
宇宙は神の表現体であり、神の体です : 高橋信次
宇宙は神の表現である : 西田幾多郎
宇宙や自然界そのものが神ですから神の心は宇宙や自然界に表現されています。
宗教とは、大宇宙に表現されている神の思想を読み取り、そこに表現されている神の心と人間の心を同じくするという、これに始まってこれに尽きます。
ただ完全なる神の心というのは、あの世の諸神霊であれ、この世の人間であれ、完全に読み取れる者や神霊は存在しません。
完全なる神の心というのは、ヘーゲルやエマソンが残しているように歴史の究極目的ですから歴史を通して一歩一歩解明していく以外に道がないのです。
エマソンが言うように人間を通して出てくる善は全て神の近似値に過ぎないからです。
例えばアイザック・ニュートンと言われる方は、イエス・キリストと同じ霊格をもった10次元宇宙界の偉大な神霊の一人です。
地球の科学者の頂点に立っている神霊ですが、それでも完全な科学法則は説いていません。
それでもアインシュタイン博士が出るまでの150年間、ニュートンの古典力学を進歩させた科学者はいなかったのです。
アインシュタイン博士の指導霊をされていた神霊がニュートン氏だったようですが、アインシュタイン博士を通して自己の時間と空間の考え方を正確なものに変えていきました。
そのアインシュタイン博士でも完全なる科学法則を説いたわけではないのです。
歴史を通して完全なる科学法則を目指して一歩一歩進んでいく以外にないのです。
全くそれ以外の道がないのですが、宗教における神の心もこれと全く同じです。
大宇宙に表現されている完全なる神の思想を読み取れる者はあの世にもこの世にも存在しないのです。
ただ科学と同じく歴史を通して完全なる神の心を目指して一歩一歩進んでいく以外に全く道がないのです。
だからヘーゲルという哲学者も歴史の究極目的としての神の心を「絶対精神」と呼び、時代の節目節目で出てくる時代精神を「世界精神」と呼んで明確に「絶対精神」と区別しています。
ヘーゲルは小は個人間から大は国家間に到るまで人間の精神内部にあって、否応なく神の心へと人類をして突き動かしている「理性の狡知」と世界の運動法則としての正・反・合の弁証法を通して人類は一単位としてこの神の究極に向かっている事実を明確に悟っていました。
だからヘーゲルは歴史とは神の世界計画であると言ったのです。
その歴史の舞台で人間を通して実現されていく価値は、明らかに神の心ですからヘーゲルは歴史とは神の自己目的化の世界であると言ったのです。
エマソンも同じ悟りをもっていたために人間を通してあらわれてくる善は全て神の近似値に過ぎないと残しているのです。
確かに人間を通してあらわれてくる善は、全て神の近似値ではあるけれども、この完全なる神の心に向かって少しづつ前進しているのです。
この点は科学の発達と全く同じです。
宗教でよくある勘違いは、自己の宗教の聖典が神の言葉であり、一言一句神の言葉が書かれており、完全なる神の心が説かれていると思い込んでいる点です。
そのようなことはあの世でもこの世でもあり得ないことです。
神の人生である宇宙とその歴史の本質を知らない方の盲信です。
大宇宙と自然界に表現されている完全なる神の心というのは、あの世の諸神霊ですら完全なる内容で読み取ることはできず、いわんやこの世の仏典や聖書、コーランや聖典で表現できるようなそのような小さい心ではないのです。
神は「永遠の神秘」であり、解明しても、解明しても、その「永遠の神秘」がなくなることはなく、だから人間の「人生の意義」も永遠になくならないのです。
神の「永遠の神秘」と人間の「人生の意義」とは、コインの裏表であり、決して切ることはできません。
神が「永遠の神秘」であり続けているがゆえに人間の存在意義もまた永遠になくならないのです。
ただ人間がその大宇宙の神秘を解明した分だけそれが「神の叡智」となり、人類の精神的方面と物質的方面の双方を進歩させていきます。
この神の「永遠の神秘」は、神の体の方面から解明されていく科学と神の心の方面から解明されていく宗教や哲学があります。
どちらも大宇宙という神そのものを探究し、解明せんとしているのです。
そして正確に大宇宙の神秘を解明した分だけ人類の文明における精神と物質が共に進歩していきます。
神を知らずに人間の精神も物質も進歩することはありません。
大宇宙の神秘を解明せずして人間は精神的にも物質的にも進歩していくことはできないのです。
人間の精神と物質の調和と進歩は、眼前の神の心と神の体、いわゆる大宇宙に永遠に依存しており、大宇宙が神ですから、要は人類の精神と物質の発達は永遠に神に依存しているということです。
諸神霊も述べていたと思いますが、今後の神への信仰とは、この大宇宙の「神秘」とそれを解明した「叡智」へと向かいます。
人類自身が真の神への信仰に覚醒していくということです。
宇宙の神秘が解明されていくということは、人類が宇宙を知っていくということであり、宇宙を知るとは人類が宇宙に近づいていくということです。
宇宙に近づくことを神に近づくというのです。
その大宇宙に近づき、一体となった存在を仏教では如来と言い、キリスト教では大天使と呼んでいます。
彼らの共通の悟りとは「宇宙即我」であり、宇宙が自分であり、宇宙が神そのものである事実を知っている悟りです。
9次元如来界と10次元宇宙界の神霊は、みなこの「宇宙即我」を悟っているのです。
地球には500名弱の神霊がおられるようですが、「宇宙即我」とは、宇宙と自己が一体であり、一体であるがゆえに宇宙の理法に十分通じているため大宇宙や自然界に表現されている神の思想を読み取ることができるのです。
8次元菩薩界の神霊は、まだ「宇宙即我」の悟りを有しておらず、宇宙と自己が少し離れておりますので、宇宙や自然界に表現されている神の思想を十分読み取ることができないのです。
だから如来は直接神の心を説くことができますが、菩薩ではまだ神の心を説くことができず、どうしても大衆相手の方便の教えになってしまうということです。
大宇宙に表現されている神の心と多次元世界に表現されている神の心とは全く同じです。
大宇宙が神の体であるならば、多次元世界もそれ自体が神の体です。
どちらも同じ神の心が表現しているのです。
ただこの世は修行場ですから、この世で神の心を悟ることはあの世のようにはいかないということです。
人間が大宇宙の外に出られないように、あの世でも多次元世界からは出られません。
何ぴとも神の心と神の体からは出られないのです。
この世であろうが、あの世であろうが、人間は神の子ですから神の神的母体の中で永遠に育まれています。
あの悪魔と言われる存在ですら多次元世界の外に出ることはできず、多次元世界という神の体の中に存在しており、多次元世界に依存せずして思うことも行うこともできないのです。
だから地獄界は5次元幽界下段界に存在し、神のスカートの裾を握りながら、悪さをしている。
それで神に逆らっているつもりでいるから滑稽なのです。
神とは何かを知らないのです。
神とはそれに逆らえたり、反発できたり、対等に戦争したり、争ったりと言ったそのようなちっぽけな存在ではありません。
天国と地獄の全てを圧倒的に超え、絶対的な幸福で治めている存在です。
しかしてその偉大なる大宇宙と人類は永遠に一体で生活しています。
神と人類は永遠に一体であり、切り離すことはできないのです。
人間は生前死後を問わず、永遠に神と一体であるがゆえに特に死後は、その一体であった神の善によってその生前思ったことと行ったことが公平に評価されて行きべき世界が決まるのです。
これはもう、「どうしようもない」のです。
過去・現在・未来の全人類は一人残らずこの神の善による公平な評価を受けるのです。
この世は神のテスト会場であり、みな神の善のテストを受けている存在です。
そのテストの点数は死後にはっきりと分かるのです。
神と人は永遠に一体で生きておりますから誰も逃れることはできないのです。
「知らなかった」、「神のテストを受けた覚えはない」、「分からなかった」というような人間に通じるようなものは神には一切通用しないのです。
宇宙は神の神殿であり、人間は神の子ですから、必ず点数はつくのです。
50点を下回れば、地獄界での反省行が待っており、自己の心を善に修正していく作業となりますが、50点を上回れば、天上界に帰天し、神がその生前のその者の善行をどれほど喜んでいたか、その神の喜びを光として全身で実感していきます。
それを幸福と言うのです。
人間は神の子ですから、親なくして幸福にはなれないのです。
人間の自我はその知識・思考・概念・認識・情操、全て相対的な性質しか持たされておらず、その相対性の本質とは物質と同様「矛盾」を意味しています。
神への信仰を失った人類は幸福になることはできませんが、それは神という統一者を失いますとそこには「自我の矛盾」と「物質の矛盾」しかなくなるからです。
そして神への信仰を失った人類は、その矛盾の大海に没していくしかなくなるのです。
だから世界的規模の腐敗を招いているのです。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
大宇宙と人間は全て永遠に一体ですから、人間が相対的な自我を強化すれば、波長同通の法則が作用して、同じく相対的な物質(神の体)の方面に支配され、物質の属性のままに生きて世界を腐敗させます。
人間が統一的方面の良心か神我を強化すれば、同じく統一的方面の神の心の方面に支配され、神の心の属性のままに生き、全世界を良化していく人類となります。
過去・現在・未来の全人類は一人残らずがそうですが、相対的な自我を強めれば、同じく相対的な物質の方面に支配され、神我を強めれば、同じく神の心の方面に支配されます。
いずれにしろ人間は神の心か神の体、いわゆる大宇宙に必ず支配されるのです。
大宇宙と人類は永遠に一体だからです。
神と人類は永遠に一体ということです。
これは人間ではもう、「どうしようもない」です。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
人間がこの「どうしようもない」神の心に支配されれば、「天」に向かうことになりますので神の心に近づいていき全世界が繁栄良化し、人間がこの「どうしようもない」神の体に支配されれば、「地」に向かうことになりますので、神の心から遠ざかっていき、全世界が腐敗悪化していきます。
では何故、人類は神の体に支配されたのか?
未開の土人でもやっている神への信仰を失ったからです。
その小賢しい知恵で知りもしない神への信仰を失ったからです。
ただそれだけで世界と人類は放っておいても自動的にボロボロになっていくのです。
この世の人間が神の体(物質)に支配されますと、あの世の諸神霊もその渦巻く無限のアイディアや啓示、あるいはインスピレーションを下ろせなくなるため、更に世界の悪化は加速していくのです。
利益や国益という悪を追っている者にアイディアやインスピレーションを下ろしますと、世界を腐敗させてしまうために諸神霊としても下ろせなくなるのです。
利益を「天」に置き、宗教ビジネスなんてことを始めてしまったために霊言を下ろせなくなったどこかの教祖と同じです。
偉大なる諸神霊は、人間の利益に奉仕するために存在しているのではなく、神の正しさに奉仕するために存在しているのです。
当たり前の話です。
人間が相対的な利益や快楽を追っておりますと、世界を悪化させるわけにもいきませんので、あの世には無限のアイディアやインスピレーションが、まさに渦巻いているわけですが、それが下ろせなくなるのです。
人間が神の体を拝めば、必然的にあの世の「天」とこの世の「地」が切られるということです。
天地の分離は人類の不幸の原理ですから、現行の人類は不幸になっていかざるを得ない。
単に信じ込むといった盲信や狂信ではなく、正しい知識に基づいた正当な神への信仰を取り戻さなければならない。
信仰とは、神を信ぜよと命令するようなものではなく、勘違いです。
我々人類の側が真に人類の救済と人類の幸福を願うならば、神への信仰一択の道しかなく、他に選択の余地がないからです。
無神論者というのは、そもそもが無責任な人なのです。
無責任な人は、社会の上に立つべきではないのです。
あの世の多次元世界における上層霊域の神霊の中に無神論者は一人も存在しないことを知らなければならない。
8次元菩薩界以上の上層霊域では、無神論は完全に消滅しておりますし、そもそも無神論など単なる嘲笑の的であり、何も知らない人間だということです。
何も知らない者が、あたかも知っている者であるかの如く振舞う、これは許すべからざる状況であるとあの世のソクラテスも指摘していたはずです。
無知は幸せなのかもしれませんが、それは人間を騙していることになるのです。
あの世の上では無神論者はおらず、この世の上では無神論者がいる。
あの世の「天」とこの世の「地」が切られています。
天地の分離は不幸の原理ですから、今のままですと今後も世界は腐敗を続けていくというのは予測できることです。
この宇宙では神の心が「天」であり、神の体は「地」で、永遠に天地一体なのです。
にも拘らず、神が永遠に「地」と定めている神の体を「天」に置いているわけですから、神の偉力によって人類はおのが選択の通り「地」に向かうことになり、増々神の心から遠ざかっていくことになる。
神の心から遠ざかっていけば、世界が腐敗していくのは十分宇宙の理法に叶っています。
全世界を本当に良くしたければ、人間自身が大宇宙と同様、神の心を「天」に置くしかありません。
我々未熟な人類の側にそもそも選択の余地などないのです。
ゼウス神も「神に向け、お前らが救われる道は、もうそれしかない」と言っておられたのは当たり前のことを当たり前に言っていただけです。
何もゼウス神だけではありませんけれども、他の諸神霊も宇宙の構造と仕組みが永遠にそうなっているために人間に神への信仰を促していたのです。
諸神霊はどの神霊であろうとも、神の心によって進化してきたのです。
神の心によってしか人間の「心」は進化できないのです。
だから霊的に進化を遂げている諸神霊の世界では無神論者は一人もいないのです。
地球系の諸神霊だけではありません。
この宇宙ではどの惑星で修業をしていようとも、神の心によってしか人の「心」は進化できないという事実を知る必要があります。
それが宇宙は神の心が永遠に治めているという一つの証明だからです。
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