宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎
当然のことながら西田博士も大宇宙が神そのものである事実を悟っておられたわけですが、神の心(主観)の表現が大宇宙(客観)ですからこの宇宙は主客合一の法則によって創造されています。
主観と客観を切ったら実在とはならず、自我となり、「地(自我)」に向かうことになります。
この宇宙では神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置きますと、神の偉力によって強制的に「地」に向かわせられることになります。
それが現代の特徴です。
人類は一生懸命、神が永遠に「地」と定めている富や国益を「天」に置き、「天」に向かっているつもりなのですが、それは神ご自身の目から見れば永遠に「地」ですから強制的に「地」に向かうことになり、神の心から増々遠ざかり、世界の腐敗に拍車がかかっていくことになります。
年間4万種類の生物が絶滅し、それに比例して人類の60%が地獄に堕ち、気候変動で人類滅亡寸前まで来ていますが、「天」と「地」を見極められず、すり替えるからそうなる。
「天」と「地」を見極められないとは、天地が見えていないということであり、これを仏教では昔から「盲目の衆生」と言ってきました。
これも人類の未熟が原因であり、要は悟り不足です。
修行者の転落の主な原因は慢心であり、傲慢ですが、神への傲慢とは相対的なものを絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置くことを言います。
現代世界がその神への傲慢の模範のような文明ですが、神への傲慢とは「転落」を意味しておりますので、人類は神への信仰に覚醒しない限り、世界はこのまま転落を続けていくことになります。
そして最後はいつものようにこの神への傲慢によって文明と世界そのものが滅び去っていきます。
「天」と「地」を逆転し、すり替えることを神への傲慢と言い、転落というのです。
人類と世界は一丸となって「地」に向かっているわけですから、いずれ文明ごと衰退し、崩壊していくのは分かっているわけです。
信仰とは科学ですから、個人であれ、人類全体であれ、神の体を「天」に置けば、必ず転落していき、酷い事態に陥れば地獄に堕ちる方も多くでてくるでしょう。
「地」に向かうとは、神の心から遠ざかっていくことを意味しているからです。
過剰に「地」に向かえば、最後は地獄に堕ちてしまいます。
そしてその人類みずからの選択通り、世界は神の心から遠ざかっていき、停滞、衰退、崩壊のサイクルに入っていきます。
最後、その人類の傲慢は神の偉力によって破壊されていくわけです。
文明の崩壊とは、傲慢の崩壊です。
正しい文明を破壊する諸神霊はいないわけであり、間違っているから破壊するわけです。
そして破壊は新たな創造の始まりです。
要は崩壊後、次世代においてどういった文明を創造していくのかが重要なことになります。
この文明は世界的規模で悪と傲慢の酸鼻を極めた文明でしたが、次の文明はこの文明の致命的な欠陥を全て修正し、二度と同じ間違いを犯すことのない文明となるでしょう。
次世代の文明の中核には神の心が置かれるわけですが、地球ユートピアのスタートとなります。
人間は神の心によってのみ善となる存在ですから、神への信仰を失った人類は悪の存在になるしかありません。
そして悪の不変の性質とは自己破壊性ですから、悪となった人類は自己破壊していくしかない。
宇宙は神の心の表現体であり、大宇宙は神の心によって善として永遠に存在しています。
宇宙とは善である : プラトン
神の心なくば、大宇宙とて善として存在できないのです。
神は大宇宙を通して、人間もまた大宇宙と同様、神の心によって善になれと永遠に教えています。
にも拘わらず大宇宙よりも遥かに小さき存在である人間が神への信仰を失ったわけですから悪になるしかないのです。
神の心に近づけば善となり、神の心から遠ざかれば悪になるのは永遠に変わらない理法です。
それが如実に顕現している世界があの世、いわゆる多次元世界であり、神の心に近き者は上層霊域に住み、巨大な光をまとい、光の天使と呼ばれ、神の心から遠ざかるに比例して下層霊域に住み、自己がまとう光も小さくなっていく。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪です。
世界の腐敗の原因も、この神の心から遠ざかっている点にその原因を求めることができます。
神の心に近づけば、自己の光も増大し、幸福感も増しますが、神の心から遠ざかるに比例して、自己の光も小さくなり、幸福感も小さくなっていきます。
高級諸神霊のまとう光が巨大なのは、神の心を十分悟っているからであり、自己のまとう光が小さい者は、神の心を十分悟っていないから小さいのです。
人は神の心を悟ることによってしか自己のまとう光を巨大化していくことはできません。
霊格を上げることはできず、自己自身を真の意味で大きくしていくことはできないのです。
全ての善の源は神の心であり、全ての悪の源は神の体です。
全ての悪の源である神の体は、全ての善の源である神の心の表現体であり、大宇宙は神の一大倫理表現です。
この大宇宙の倫理を神の心と言いますが、大宇宙は永遠に神の心が神の体を支配しており、永遠に善が悪を支配している世界です。
神は大宇宙を通して、人間も大宇宙の如く、神の正義で利益を支配せよ、善で悪を支配せよ、神の心で神の体を支配せよと教えています。
それを金で正義を支配し、神の光で神の心を支配し、カルトのように神の体で神の心を支配せんとする不届き者がいるために地球では地獄を作ったのです。
今回の救世運動の核は、この真の神の権威の確立であり、大宇宙の絶対的権威の確立です。
うちはゼウス系統からの真理ですので、ゼウス神の庇護の下この神の権威は確立されていきます。
具体的には神約民主論国家の実現を通して大宇宙の絶対的権威を確立していくわけです。
民主主義諸国が間違っているのは、「自由と平等」の二大概念であり、神の存在を否定すれば平等はどこにもないのに平等を教えている点です。
これは矛盾であり、偽りの平等を国家が教えているということです。
正確に言えば「平等」とは何かを人類は知らないということです。
矛盾は物質を意味しているため、同じく物質が意味する利益を根底にもった政治体制になります。
だから既存の民主主義は、人民共通の利益に基づいた国家契約になっているのです。
神が永遠に「地」と定めている相対的な利益を「天」に置いているのです。
政治でも利益を「天」に置き、経済でも利益を「天」に置き、共産主義でも相対的な物質を「天」に置いているのです。
利益から出発している文明であり、これは自我から出発している文明や思想と同じであり、神ご自身の目から見れば、明らかに悪なのです。
全ての多様な善は神の心に帰一しているのであって、相対的な利益や自我に帰一しているのではないのです。
にも関わらずこの致命的な欠陥をもった文明は、全てを利益に帰一しようとしたため腐敗の極に達したのです。
神の心が神の体を治める世界ではなく、神の体が神の心を治める世界を作ってしまったのです。
神が宇宙で永遠に実現しておられる世界とは、神の心が神の体を治め、支配している世界です。
だから大宇宙は永遠に美しいのです。
人類はその悟り不足から神の心と逆の世界を作り、みずから腐敗していったのです。
この大宇宙では神の体(物質)は相対的なものですから、神は永遠に物質を「地」に置いているのですが、人類はこれを「天」に置いたのです。
世界の腐敗とは、神への傲慢による転落です。
大宇宙では神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体ですが、人間の作る文明は神の体を「天」に置き、神の心を「地」に置いているのです。
すなわち大宇宙と我々の文明が切断され、歯車が噛み合っておらず、宇宙と文明が分離しているのです。
宇宙即我が善。
宇宙と我の分離が悪。
宇宙と文明の分離が悪。
神と離れれば、その存在は全て悪になるのです。
これも人類の未熟が原因であり、悟り不足が原因です。
この文明が根源から間違っていると断定していい根拠とは大宇宙です。
神は宇宙において神の心を「天」に置き、神の体を「地」に置き、永遠に天地一体の理法で治めているわけですが、人類の方は神の体を「天」に置き、神の心を「地」に置いているがゆえに大宇宙、すなわち神ご自身の目から見て間違っていると断定していい。
個人にしろ、人類全体にしろ、今後の人間は眼前の大宇宙を模範とし、倣っていくわけですから大宇宙と合一した文明を創造していかなければならない。
悟り不足は死を招くわけですが、見事に死を招く文明になっています。
少なくともこの欠陥だらけの文明を未来の人類に継がせるわけにもいかないでしょう。
人間は誰であろうが、神の心によってしか善にはなれないわけですから、神への信仰は今後義務になります。
いや、自分は悪でも構わないというのは通用しないのです。
善霊は善霊に通じ、悪霊は悪霊に通じる理法によって悪ならば地獄と通じ、神が造ったわけでもない地獄界に堕ちてしまうのです。
悪を為して、神が造ったわけでもない世界に堕ちるということは、悪は神の意志ではないということです。
すなわち宇宙の意志は、永遠に善にあるということです。
そして善霊は善霊に通じる理法によって死後は天国に帰天し、永遠の生命と幸福を得るということです。
善を為せば、必然的に善霊と通じ、天国に帰天して幸福になっていくからです。
だから人類は神から永遠に善を命じられている。
カント哲学では、「まさに善を為すべし」という道徳的命令として説かれてきました。
神の永遠の意志が「善」にあるということは、神の不変の意志とは全人類の幸福にあるということだ。
幸福を快楽とすり替える者は多いけれども、幸福が「天」であり、快楽が「地」で、永遠に天地一体です。
幸福即快楽で、永遠に天地一体ですが、この「即」の中道の紙一重で幸福と快楽をすり替え、悪になっていく者が多い。
幸福と快楽は似て非なるものである : 西田幾多郎
幸福と快楽の区別と一体性を悟れましたならば、まず第一級の精神と見ていい。
これは真の中道に入っていなければ悟れないからです。
中道とはこれ神の心。
幸福が統一であり、快楽が矛盾です。
しかして統一即矛盾、幸福即快楽で双方は一実在の両方面です。
真理が統一であり、現象利益は矛盾です。
しかして統一即矛盾、真理即現象利益で双方切ることはできず、一実在の両方面です。
双方を切ったら実在とはならず、自我となり、「地」となって、「地」に向かうことになる。
この「即の中道」に入れない者は、全人類の幸福を実現することはできず、神の繁栄を実現することもできず、一人残らずの全人類救済法則を説くこともできない。
全ての真理は宇宙にあるがゆえに次世代の文明では大宇宙の絶対的な権威を確立し、真の神の権威を確立しておかなければならない。
そして科学と同様、今後の宗教は神の心と神の体の探究、すなわち大宇宙の探求に入っていくということです。
大宇宙の探求こそが、真理の探究であり、神の心の探究だからです。
未来の人類は科学的にも、宗教的にも大宇宙を正確に理解していく歴史となり、宇宙に近づいていくことになる。
宇宙を知ることを神を知ると言う。
宇宙は永遠がなければ知り得ない。
だから神は子に等しく「永遠」を与えた。
永遠がなければ、平等もない。
もし永遠なくば、人は無限に進化・向上していくことはできず、その霊的な進化は有限となる。
その瞬間、宇宙と自己は切られ、宇宙も人間もその存在意義を失う。
有限なるものに存在意義はなく、平等もなく、有限の進化には希望もない。
有限の進化とは、未完を意味しており、無限に向上・進化できないということであるから人は未熟から抜け出すことができなくなる。
世界の全ての諸問題の原因とは、たった一つ人類各人の「未熟」に起因しているわけであるから有限の進化は絶望しかもたらさない。
無限に向上・進化できる時、人はそこに希望を見る。
人が無限の向上と進化が可能になるためには、永遠を必要とする。
永遠なくば、人は大宇宙を知ることはできず、自己の全てを知ることもできない。
逆から言えば、「永遠」あるがゆえに大宇宙の全てを知ることが可能となり、自己の全てを知ることが可能となる。
全てを知ることが可能であるがゆえにそこに存在する全てのものに存在意義を見ることができる。
永遠あるがゆえに無限の向上と進化が可能となり、無限の成熟が実現する。
無限の成熟可能性は、世界の全ての諸問題の原因である「未熟」を全て超克するがゆえに人間は自分の作った問題を自力で解決していくことができる。
永遠なくば、無限の向上は不可能となるためそこには絶望しかない。
永遠あれば、無限の向上が可能となるためそこには希望が存在する。
多次元世界とは、永遠を実証している世界であり、永遠が在ることを証明している世界です。
諸神霊が今回、あの世の完全証明を為すと言っていたのは、「永遠」の完全証明を為すと言っていたのです。
死して無となるような存在に何の意義があるというのか。
それは正義も無となり、愛も無となり、善も無となる解釈しか成り立たない。
それは神も無になるということであり、もはやそれは神が存在しないのと同じです。
人はそこに絶望しか見ることはできない。
いくら善を信じたとて、それはいずれ無となるのであるからその信仰も虚しいものになります。
かつてドストエフスキーが言ったように、不死がなければ善もないわけであり、全ての悪が許される世界です。
逆から言えば、不死があれば善もあるわけであり、全ての悪は許されない世界です。
永遠なくば、人間の心なく、正義なく、善なく、愛なく、慈悲なく、真善美なく、神の存在もない。
それは人間の「心」すらいつかなくなる世界です。
永遠あれば、人間の心あり、正義あり、愛あり、善あり、慈悲あり、真善美あり、神の存在もある。
「永遠」が人類の希望であるゆえんです。
あの世の完全証明とは、永遠の完全証明であり、希望の完全証明です。
現代の文明は、利潤という矛盾に始まって、矛盾の中で懊悩し、矛盾に終わり、その矛盾によって自己崩壊していく文明です。
次世代の文明は統一から始まって、永遠の中で生き、統一に終わり、その統一によって「天」に上げられる文明となります。
現代の文明のように矛盾に始まって、矛盾に終わってはならないということです。
統一に始まって、統一に終わらなければならない。
これが神はアルファにしてオメガ、始めにして終わりである神の心です。
神の心とは、永遠に真理の入り口にして出口です。
文明もまたそうでなければならない。
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