真理関係

宇宙即我の文明 7

神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎

神の心は「統一」であり、神の体(物質)は「矛盾」です。

神の心と神の体は一つであり、統一即矛盾で双方は一実在の両方面です。

統一と矛盾を切ったら実在(無限)とはならず、有限となり、方便の善になります。

人間の自我(表面意識)は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、この自我の相対性は物質の相対性に対応しているのです。

物質とは、イコール「時空」であり、時間と空間は相対的なものであり、すなわちそれは「矛盾」を意味しています。

アインシュタイン博士によれば、物質は相対的なものですので、つまり絶対的なものではないということです。

相対的なものを絶対化することを「神への傲慢」と言いますが、絶対的なものを「信仰の自由」を通して相対化しても、同じく「神への傲慢」となります。

相対的なものを絶対化するとは、「地」に置くべきものを「天」に置いているのであり、絶対的なものを相対化するとは、「天」に置くべきものを「地」に置いているのです。

どちらも「天」を知らず、「地」を知らず、この天地を知らない「無知」が、「神への傲慢」を生んでいます。

そしてこの「神への傲慢」によって人類と世界は悪化を続け、いつの時代の文明もこの「神への傲慢」によって滅び去っていくのです。

物質の矛盾と自我の矛盾は対応しておりますので、人間が神への信仰を失いますと、その相対的な自我のままに生きることになりますので、必然的にこの相対的な物質(神の体)の方面と心が同通し、物質の属性を有した思想や行動しか取れなくなるのです。

典型的な物質の属性とは、相対的な「利益と快楽」であり、信仰を失った人間は、必ずこの「利益と快楽」に支配され、矛盾した世界を創り、世界腐敗の温床になるのです。

「利益と快楽」とは、「矛盾」を意味しておりますので、信仰を失った人類は、必ずこの「矛盾」に支配されるということです。

哲学や思想の世界でも「矛盾」した思想は価値を持ちませんし、その「矛盾」によって世界が良くなることもありません。

宇宙や自然界は、統一(神の心)の表現体であって、矛盾(神の体)の表現体ではないからです。

「利益と快楽」に「心」が支配されているとは、「矛盾」に「心」が支配されているということです。

自我の矛盾と物質の矛盾は、必ずリンクするのです。

政治や経済の制度上の問題もありますが、現代の人類が「利益と快楽」を「天」に置いて拝んでいるのは、これが理由です。

相対的な自我(矛盾)は、波長同通の法則によって、必ず相対的な神の体(矛盾)と同通するのです。

神への信仰を失いますと、人類の「心」は、必ず神の体(矛盾)に支配されますので、神の体(物質)を「天」に置くようになり、神の心を永遠に「天」に置いている眼前の大宇宙や自然界と対立していくのです。

大宇宙と対立しますと人類と世界は悪化を続け、最後は我々の文明のほうが崩壊し、国破れて山河ありとなるのです。

自然界とは神そのものですので、自然界が崩壊することはなく、崩壊していくのは、いつでも人間の創る文明のほうです。

過去・現在・未来の未熟な人類は、その「善悪の基準」を永遠に「神の存在」に依存しておりますので、神の存在と離れますと誰でも「悪の存在」になるのです。

神人合一が善であり、神人分離が悪です。

宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪です。

自然即我が善であり、自然と我とが分離すれば悪です。

我々人類やその文明が、果たして「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに神の心と合一できるか、否かにかかっています。

今の人類の創る文明は、神の体(利益と快楽)を「天」に置いておりますので、神の心を「天」に置いている自然界と対立し、分離してしまっているのです。

宇宙や自然界とは神そのものですので、自然界と離れますと「悪の存在」となり、「悪の文明」になるのです。

「悪の存在」となり、「悪の文明」になっているから、多くの人間が地獄に堕ちたり、不幸になっているのです。

この「不幸な文明」に歯止めをかけ、根本から変革していくには、大宇宙や自然界と同様、神の心を「天」に置く信仰に覚醒するしかありません。

未熟な人間のほうが、自然界や大宇宙と同様、神の心を「天」に置きますと、それを永遠に「天」に置いておられる自然界と人間が融合し、大宇宙と人類が合一していくのです。

人は神への信仰によって「自然即我」となり、「宇宙即我」となるのです。

「自然即我」が善であり、「宇宙即我」が善ですので、人は信仰によって「善の存在」になるということです。

神の心を「天」に置けない人間は、必ず神の体(利益と快楽)を「天」に置いておりますので、必然的に「悪の存在」になるのです。

悪とは、神の心と人間の心が離れることを言うからです。

正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ

大宇宙と合一できれば、善であり、合一できなけば、悪なのです。

自然界と合一できれば、善であり、合一できなければ、悪なのです。

どう屁理屈を言おうとも、善は善であり、悪は悪なのであり、因果の理法をくらますことはできません。

不昧因果です。

神の体(矛盾)は、神の心と合一しているために善なのです。

人間(矛盾)も、神の心と合一できなければ「善の存在」にはなれません。

人間はその自我の相対的な「矛盾」によって、単独で「善の存在」にはなれないのです。

統一(神の心)を失った人類は、必然的に矛盾(自我)から発した言動を取るようになりますので、その存在自体が悪となり、罪となりますので、キリスト教のほうでは、これを「人間・罪の子」と呼んできたのです。

神の心と人間の心が合一すれば、「神の子」であり、神の心と人間の心が離れれば、「罪の子」です。

神の心(統一)と人間の心(矛盾)が合一すれば、「統一即矛盾」の大宇宙の姿に戻りますので、みな「神の子」となり、「罪の子」は消え去り、「原罪」も消滅していきます。

「人間・罪の子」の思想や「原罪」の思想は、あくまで神の心と人間の心が分離している、その人間の心を分析して出ている思想ですので、神の心と人間の心が神人合一していれば、「罪の子」の思想はなくなり、「原罪」の思想も消滅していきます。

「人間・罪の子」の思想や「原罪」の思想は、実在ではなく、あくまで方便の善なのです。

誰でもその未熟から神の心と離れることがあるということです。

神の心と人間の心を自我で切った自我に比喩した善、すなわち方便です。

神は大宇宙を通して、矛盾した存在に過ぎない人間は、神への信仰と合一によって「善の存在」になれと永遠に教えているのです。

神の体(自然界)は、隅々まで神の心によって統一されておりますので、森羅万象は善なのです。

プラトンは大宇宙の存在を善と残しておりますが、それは物質宇宙(矛盾)は、神の心によって悉く統一されているからです。

矛盾は統一された時、善となります。

つまり神は悪を「ひとかけら」も創っていないのです。

神人合一が善であり、神人分離が悪ですので、神の心と合一して地獄に堕ちる人はいません。

地獄に堕ちれば不幸ですが、神の心と人間の心が合一すれば、地獄に堕ちるような人はいなくなりますので、そこには不幸が「ひとかけら」も存在しないのです。

神への信仰なくして人類は幸福になることはできないということです。

神の心を「天」に置けない人間は、必然的に神の体(利益と快楽)を「天」に置きますので、自動的に大宇宙や自然界と対立し、「悪の存在」になるからです。

「悪の存在」によって人類が幸福になることはないのです。

神の心と自己の心が離れれば、自分自身が「悪の存在」となって、最悪地獄に堕ちて不幸になるだけです。

では何故、今の人類はその「心」が、大宇宙と離れ、自然界と離れ、神の心と離れ、「悪の存在」になってしまったのか?

神への信仰を失ったからです。

ただそれだけの話なのです。

神への信仰のない人間は、必然的に相対的な自我のままに生きておりますので、自動的に相対的な物質と心が同通し、神の体を「天」に置いて神ご自身と対立し、「悪の存在」になっていくのです。

神の心を信ずることができない人間は、必然的に「悪の存在」になるように、神が人間をそう創っているのです。

神の正しさを信ずることのできない人間は、神の体(利益と快楽)に支配されますので、「悪の存在」になるように創られているのです。

これは人間では、どうしようもないことなのです。

人間は、その統一的な神我を強化すれば、同じく統一的な「神の心」の方面と心が同通しますし、その相対的な自我を強化すれば。同じく相対的な「神の体」の方面と心が同通するのです。

そして人間の心が、「神の心」と同通すれば、世界は良くなり、人間の心が、「神の体」と同通すれば、世界は悪くなるのです。

神の創られた世界は、神ご自身が永遠に支配しておられますので、人間ではどうしようもないわけです。

この神の人類支配の方法を知らなければ、人類はその全体として幸福になっていくことができないのです。

人間のほうが相対的な自我を強化しても、「神の体」に支配されたくないと、いくら泣き叫んでも、必ず支配されますし、統一的な良心を強化しても、「神の心」に支配されたくないと、どんなに喚き散らしても、必ず支配されるのです。

「神の意向」は絶対なのです。

神と人類は永遠に一体で生きておりますので、人間ではどうしようもありません。

誰でもそうなるということは、人間が神に抗うことはできないということなのです。

それで「悪の存在」となり、死んでしまった大救世主がいたはずです。

相対的な自我を強化し、ひたすら「利益と快楽」を求めたがゆえに、「神の体」の方面に支配され、「地」に向かってしまったのです。

この宇宙に生きている限り、神への信仰を失えば、誰であろうが、同じ理由で「悪の存在」になってしまうということです。

この神への信仰が自由のわけないのです。

統一(神の心)と矛盾(人間の心)を切ったら実在(無限)とはならず、自我(有限)となり、真理(無限)とはなりません。

人間は神への信仰によって善となり、神への不信仰によって悪となる存在です。

善となれば幸福になり、悪となれば不幸になるのです。

この幸福と不幸が、天国と地獄で現象化しているだけです。

神の心と合一できれば、天国へと帰天し、幸福になり、神の心と離れてしまえば、地獄に堕ち、不幸になるということです。

神の心と合一して地獄に堕ちる者はおりませんので、将来的に地獄界の消滅を決定づけるものとは、神への信仰であるということです。

今の人類は、この神への信仰の重要性を知らないのです。

神を信ずることは自由であると思っているような人は、神の心や信仰の重要性を知らない人なのです。

神の心を「天」に置けば、人類は必ず幸福になり、神の心を「地」に置けば、人類は必ず不幸になるのです。

何度も言いますが、「神の意向」は絶対なのです。

人間に抗うことはできないのです。

信仰とは、神の心を「天」に置く行為ですので、信仰の目的とは、人類の幸福です。

この神の心を悟ることが、万人の永遠の「人生の意義」になっています。

神の心を悟れば、神の心と合一しますので、そこには地獄もなければ、悪もなく、罪もなければ、不幸もないのです。

これが日蓮の言っていた「悟りという名の幸福」です。

神の心を悟らない、その未熟な「人間の心」に地獄があり、悪があり、罪があり、不幸があるのです。

「悟り」あるところに地獄なく、悪なく、罪なく、不幸なしです。

その最勝の「悟り」が「宇宙即我」なのです。

最高霊域である如来界のお歴々の共通の悟りです。

「大宇宙の存在」のことを「神」と言いますので、「宇宙即我」の悟りとは、神即我の悟りです。

この文明において大宇宙と分かれてしまったがゆえに、不幸になってしまった我らですから、今後の文明では同じ間違いを犯してはならないのです。

次世代の文明とは、大宇宙と人類が融合していく「宇宙即我の文明」です。

今後の歴史は、全人類の幸福とは大宇宙、すなわち「神の存在」にあることを理解していく歴史になるでしょう。

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