真理関係

宇宙即我の文明 3

宇宙(客観)は、神の心(主観)の表現体であり、主観と客観が合一した主客合一の世界です。

西田哲学で説かれる「主客合一の法則」とは、「絶対の法則」ですので、この宇宙の構造と仕組みを変えることのできる人間は存在しません。

過去の宇宙も「主客合一の世界」であったし、現在の宇宙も「主客合一の世界」であるし、未来の宇宙も「主客合一の世界」です。

過去・現在・未来を超えているということは、「主客合一の世界」とは「永遠の世界」なのです。

心と世界が、永遠に一体の世界です。

時間と空間は、時空と言って切り離すことはできませんので、宇宙空間のどこに行っても、神の創られた世界は、「主客合一の世界」ということです。

時間と空間を超えているということは、神の創られた世界は「絶対的な世界」であることを意味します。

あの世であれ、この世であれ、神の創られた正しき世界は、「主客合一の世界」です。

見られる全世界(客観)は、見る者全人類の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。

今の世界(客観)が醜いのは、人類の心(主観)が醜いからです。

心と世界は、永遠に一体ですので、心が醜ければ、世界も醜くなり、心が美しければ、世界も美しくなります。

この世を美しい世界(客観)にしたければ、人類の心(主観)を美しい心にするしかありません。

「主客合一の世界」は、絶対の世界だからです。

心が醜いのに、世界が美しくなることはありませんし、心が美しいのに、世界が醜くなることもないのです。

心(主観)と世界(客観)が、永遠に一体であるということは、世界を良化するには、その世界と一体である人間の心を良化するしかないということです。

世界が醜いのは、その世界と一体である人類の心が醜いからです。

何が美しく、何が醜いのかは、「神の意向」によって決まっています。

人間の恣意や都合は一切通用せず、人間の心の美醜は神の心が基準になっています。

人間の心が美醜を決めているわけではありません。

神の創られた世界では、常に「神の意向」が優先的に現実化してくるのです。

人間が利益や快楽を増やして、幸福になろうと言う、その「人間の意向」が世界に現実化してくることはなく、それは間違っているという「神の意向」のほうが、腐敗や悪化として現実化してくるのです。

この世界は、神の創られた正しき世界であり、人間が創った世界ではありませんので、「人間の意向」が世界に反映してくることはなく、常に「神の意向」が世界に反映してくるのです。

実際、その世界を創られた存在の意志が現実化してくるのです。

「人間の意向」を現実化しようとすれば、するほど、「神の意向」が働き、世界の悪化が継続していくのです。

世界と人類が悪化を続けているとすれば、それは「神の意向」が作用して、悪化を続けているわけですから、人類の心の中にどこか間違いがあるのです。

その間違いを悔い改めることなく、世界が神の創られた通りの美しい世界に戻ることはありません。

過去・現在・未来の全人類は、永遠に神が支配しておられるからです。

善ならば繁栄し、悪ならば衰退していくのです。

善ならば良化していき、悪ならば悪化していくのです。

善ならば天国になり、悪ならば地獄になるのです。

どうしようもないわけです。

神の創られた「主客合一の世界」は、絶対の世界ですので、あの世も全てこの「主客合一の世界」になっています。

「主客合一の法則」は、あの世とこの世を貫いているのです。

見られる菩薩界というその世界(客観)は、そこに住む菩薩の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。

菩薩界が美しいのは、菩薩の心が美しいからです。

見られる地獄界というその世界(客観)は、そこに住む地獄霊の心の世界(主観)であり、主観と客観は永遠に合一しています。

地獄界が醜いのは、地獄霊の心が醜いからです。

地獄霊が、いくら天国に住みたいと願っても、心と世界は一体ですので、心が醜い限り、天国に住むことはできません。

主観と客観は一つであり、心と世界は切れませんので、世界を良くしたければ、その世界と合一している「心」を良くするしかありません。

あの世であれ、この世であれ、世界を美しい世界にしたければ、人類各人がその「心」を美しくするしかないのです。

他に選択肢はないのです。

心と世界が切られている場合、心を良くしようが、悪くしようが関係なく、世界は勝手に良くなったり、悪くなったりするでしょうが、心と世界は永遠に切ることはできず、同体ですので、世界と同体である人間の「心」を良くしなければ、世界が良くなることはありません。

自己の心を美しいものにするには、神の心をみずから悟っていくしかないのです。

多次元世界では、神の心を悟れば、悟るほど、その世界自体が、美しく荘厳な世界になっていきます。

神の心によってそうなるのです。

従って高次元の世界に行けば、行くほど、世界は美麗なものになり、高貴で荘厳な世界になります。

これはこの世でも同じです。

神の心によってしか、人間の心が美しくなることはありませんので、この世界を美しい世界にすることができるのは、神の心のみということです。

神への信仰なくして、人類が救われたり、幸福になったり、美しい世界を創ったり、地上天国が創られることもないのです。

真善美は、永遠に神の心から来るからです。

神の心と離れた者の創る世界は醜く、そういった人間は悲惨な地獄界に住んでいます。

神の心を悟れば、その心は美しく、荘厳な世界となり、神の心と離れていくに比例して、その世界は美しさを失い、荘厳さの欠けた世界になり、あまりにも神の心と離れていきますと、そこは地獄界となり、非常に醜い世界になるのです。

神の心に近づけば、人間の心は美しくなり、神の心から遠ざかれば、人間の心は美を失っていきます。

「美醜の基準」も神の心なのです。

その心と世界は、永遠に一体ですので、美しい世界を創るには、美しい心を創り、神の心を悟っていくしかないのです。

美は神から来るからです。

全ての人間の「心」を美しくしてくれる存在を神の心と言います。

この神の心を信ずることが、個人の自由のわけないのです。

今の人類は、人間の「心」というのは、一体何によって善となり、何によって成長し、何によって美しくなり、何によって進化するのかを知らないのです。

非常に無頓着ですが、「心」とは自分自身ですので、自分自身を「善の存在」にするには、神の心を悟っていくしかありません。

全ての人類の「心」は、神の心によって「真なる存在」になり、神の心によって「善なる存在」になり、神の心によって「美なる存在」になるのです。

永遠にそうなっておりますので、人間を神の子というのです。

従って神への信仰を失えば、人間の「心」は、「善なる存在」にも、「真なる存在」にも、「美なる存在」にもなれませんので、醜い心になって、醜い世界となり、悪化を余儀なくされるのです。

世界が醜いのは、人類の心が醜いからであり、世界を元の神の創られた通りの美しい世界に戻すには、醜い人類の心を神の心によって美しい心に変えていくしかありません。

心が醜いのに、「うずぐじい世界に住みだあーい」と喚いても住めませんし、心が美しいのに「みにぐい地獄界に住みだあーい」と泣き叫んだところで住むことはできません。

神の創られた世界の御前では、人間の恣意や都合は一切通用せず、どうしようもないのです。

「地獄界に住みだあーい」という人間の都合は通用せず、「天国に住みだあーい」という人間の恣意も通用しないのです。

心が醜ければ、醜い世界に住みますし、心が美しければ、美しい世界に住むのです。

どうしようもないのです。

心と世界は、永遠に一体であり、主観と客観は永遠に合一しているからです。

その心の美醜は、人間が決めているのではなく、神が決めておられるのです。

だから神の心を悟って高次元に行けば、行くほど、自己の「心」は美しさと荘厳さを増していくのです。

元々、神の心が美しく、荘厳な心ですので、人間もその神の心を悟っていけば、美しく、荘厳な心になるのです。

そして美しい心は、美しい世界を創り、荘厳な心は、荘厳な世界を創ります。

「ぼざつ界に住みだあーい」と叫んでも、菩薩の悟りを得なければ住めませんし、神の心と離れているようでは、地獄界に住むしかありません。

「地獄界に住みだくなあーい」と駄々をこねても、住む者は住むのです。

あの世であれ、この世であれ、神の創られた世界は、心が世界に映る仕組みになっているからです。

自己の「心」の通りの世界に住むのです。

カントが残しておりますように、主観(心)が客観(世界)を可能にしているのです。

人間が大宇宙を創ったわけでもなければ、人間が多次元世界を創ったわけでもないのです。

あの世であれ、この世であれ、それは神の創られた世界ですので、その世界を創った者の意志が、常に「神の意向」として世界に反映してくるのです。

「神の意向」によって、6次元霊界に住む者は住み、7次元神界に住む者は住むのです。

多次元世界の住人は、「人間の意向」や「多数決」によって、そこに住んでいるわけではなく、「神の意向」によってそこに住んでいるのです。

もし「人間の意向」が現実化してくる世界ならば、誰も地獄界に住みたい人はおりませんので、地獄界は存在しないのです。

それでも地獄界に住むことになるのは、それは地獄に住みたくないという「人間の意向」が反映されているのではなく、「神の意向」が反映されているからです。

神の創られた世界では、常に「神の意向」が優先的に現実化してくるのです。

「人間の意向」としては、誰も地獄に住みたくはないのです。

しかして地獄に住みたくないという「人間の意向」が、世界に反映されることはなく、もし間違った心や悪なる心であれば、「神の意向」が優先的に反映してくるため、地獄に堕ちてしまうのです。

人間の忖度やご都合主義、あるいは恣意は、一切通用しないのです。

それだけ本人の心が、神の心から離れているという「神の意向」によって地獄に住むことになるのです。

多次元世界であろうが、大宇宙であろうが、永遠に神の心が支配している世界ですので、「人間の意向」が現実化してくることはなく、常に「神の意向」が現実化してくるのです。

「人間の意向」を反映させようとすれば、するほど、「神の意向」が現実化してくるため、社会は悪化を続けるのです。

この世界は、神の創られた世界だからです。

人間が創った世界ではないのです。

あの世であれ、この世であれ、神の創られた世界では、常に「神の意向」が現実化してくるという事実を知らなければ、人類と世界を良くしていくことはできないのです。

人間が神への信仰と悟りによって「善なる存在」となれば、「神の意向」が優先的に現実化してきますので、人類が救われたり、幸福になったり、地上天国ができたりするのです。

今の世界が悪化を続けているのは、「神の意向」によって悪化しているのであり、人類のどこが間違っているのかを教えているのです。

人間のほうは、その多くが世界と人類を良くしようと思っているのです。

良くしようと思っているのに、良くならないのは、この「神の意向」が反映しているからです。

何故、神の御心を謙虚に探究していかなければならないのか?

我々の暮らしている世界は、常に「神の意向」が現実化してくるからです。

もし神の御心を見誤れば、「神の意向」が現実化してきますので、世界と人類を良化していくことができなくなるのです。

過去・現在・未来を通して変わりませんが、この世界は神の創られた世界ですので、常に「神の意向」が現実化してくるのです。

「人間の意向」で、世界や人類を良くしようとしても、その「人間の意向」が、世界に反映されることはなく、神の存在を無視したり、否定したり、神の体(利益と快楽)を「天」に置いたりする、その生き方が間違っているという「神の意向」のほうが優先的に世界に反映してくるため、人類と世界は悪化を続けていくのです。

無神論は、まさに「高くつく」のです。

ゼウス神が警告しておられましたように、方法は一つであり、人類自身がみずからの選択で神への信仰に覚醒するしか方法はないのです。

人類の救済と幸福を真に望むのならば、方法は二つも三つもないのです。

方法は一つであり、神への信仰に覚醒し、大宇宙や自然界と同様、神の心を「天」に置くしかありません。

大宇宙と人類、神と人類は、永遠に一体で暮らしておりますので、現実の世界では、常に「神の意向」が反映してくるのです。

理性的なものは、現実的であり、現実的なものは、理性的である : ヘーゲル

神の心は、永遠に現実化しているのであり、世界には、常に「神の意向」が現実化してくるのです。

「神の意向」が、現実化してくるのは、神と人類は永遠に一体で生きているからです。

大宇宙は「神の心」と「神の体」で構成されておりますが、大宇宙と人類は永遠に一体ですので、人間がその相対的な自我を強化すれば、アインシュタイン博士の相対性理論が発動し、同じく相対的な神の体(物質)の方面と心が同通していくのです。

心が物質(神の体)に支配されれば、物質の属性を有した思想や行動を取るのです。

今の人類も物質の属性に支配され、相対的な利益と快楽を「天」に置いて目的にしているはずです。

矛盾(神の体)を「天」に置くことによって、無限に世界を悪化させているのです。

矛盾を「天」に置きますと、その対立から悪が無限に現象化してくるのです。

すると未熟な方から順に地獄に堕ちていきます。

神の体を「天」に置いた世界は、「神の意向」が現実化してくるため、人類と世界の悪化という現象であらわれてくるのです。

この悪化を食い止めるには、神の体(利益と快楽)を「天」に置いた世界を根源から悔い改め、大宇宙や自然界と同様、神の心を「天」に置くしかありません。

神の体を「天」に置いた世界から、神の心を「天」に置いた世界へのポールシフトです。

それができなければ、今後も悪化は続き、ティッピング・ポイント(臨界点)を過ぎれば、我々の文明のほうが崩壊していきます。

人間は、統一的な神我、ないしは良心を強化し、同じく統一的な神の心の方面と同通していくしかないのです。

神の心と同通していけば、諸神霊や善霊とも同通してくるのです。

すると「神の意向」が反映してきて、地獄に堕ちる人がいなくなるのです。

人間の心が自由にどう動こうとも、大宇宙と人類は永遠に一体で生きておりますので、必ず「神の心」か「神の体」と同通するのです。

「神の心」とも、「神の体」とも、「同ずぅしだくなあーい」と鼻水垂らしてベソをかいても、この宇宙に生きている限り、そのようなことは通用せず、必ず「神の心」か「神の体」と同通します。

「神の心」と人間の心が同通すれば、「神の意向」によって、人類と世界は良くなり、「神の体」と人間の心が同通すれば、現代文明のように、「神の意向」によって、人類と世界は悪化を続けるのです。

ならば今の人類は、どうして「神の心」ではなく、「神の体(物質)」とその「心」が同通してしまったのか?

神への信仰を失ったからです。

自己の神我や良心を強化しなくなったため、善霊と同通することができなくなったのです。

そういう救世主がどこかにおりましたけれども、諸神霊や善霊は、常に神の善を本音にしておりますので、利益を本音に置く人間は、波長同通の法則上、善霊と同通できなくなるのです。

神への信仰なき人間は、必ず相対的な自我のままに生きているのです。

相対的な自我のままに生きれば、相対性理論が発動し、同じく相対的な物質の方面の支配を受けるのです。

その結果、「神の意向」として多くの人間が地獄に堕ちる世界を創ってしまうのです。

もし神の体を「天」に置いても、多くが地獄に堕ちなければ、未熟な人間は、それが悪であると気づくことができなくなるのです。

「神の意向」とは、「大宇宙の意向」です。

常に「大宇宙の意向」が現実化してくるのは、大宇宙と人類は永遠に一体で暮らしているからです。

関連記事

  1. 追悼 大川隆法 4

  2. 救世主妄想 4

  3. GLAと幸福の科学 6

  4. 大日意識の意図

  5. 幸福の科学の教え 6

  6. 天国か、地獄か

  7. 「北極圏報告カード」2017年度版

  8. 救世主妄想 2

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

カレンダー
2025年12月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  
アーカイブ
最近の記事 おすすめ記事