宇宙は神の心の表現体であり、神の心と神の体(物質)は一つです。
神は自分に似せて神の子(人類)を創られました。
人間も「心」と「体」で構成されておりますが、大宇宙も「神の心」と「神の体」で構成されています。
「人間の心」は、「神の心」によって育てられ、「人間の体」は、「神の体(自然界)」によって育てられています。
今の人類の間違いは、「人間の体」が、「神の体」によって育てられているために、「人間の心」まで「神の体」によって育つと思い、神の体(利益と快楽)を「天」に置いてむさぼっていることです。
「神の体」によって「人間の心」が育つことはないのです。
神への信仰者は、人間を神の正しさに奉仕させますが、神への不信仰者は、人間を自己の利益と快楽に奉仕させるのです。
正義は君子を創り、心を育てますが、利益は小人を創り、心を退化させていくのです。
「神の心」は、「人間の心」を育てますが、「神の体」は、「人間の心」を転落させていくのです。
そして神の体を「天」に置けば、置くほど、自己のまとう光も減少し、最後はなくなり、悟りも喪失していきます。
後は魔に蹂躙されていくのも時間の問題となります。
「神の体(利益と快楽)」で「人間の心」が育つことはなく、守ることもできません。
「人間の心」は、「神の心」によってしか育つことはできず、守ることもできないのです。
神の体を「天」に置けば、人類は必ず不幸になり、神の心を「天」に置けば、人類は必ず幸福になるのです。
神の体を「天」に置けば、神の心を永遠に「天」に置いておられる大宇宙や自然界と必ず対立するために、人類は不幸になるのであり、神の心を「天」に置けば、それを永遠に「天」に置いておられる大宇宙や自然界と合一するために、人類は幸福になるのです。
過去・現在・未来の人類にとって永遠に変わらない不変の善悪の基準とは、大宇宙の存在であり、自然界の存在であり、多次元世界の存在、すなわち神の存在なのです。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪です。
自然即我が善であり、自然と我との分離が悪です。
神人合一が善であり、神人分離が悪です。
神の心と合一すれば善なのであり、神の心と離れれば悪になるのです。
未熟な人類は、その善悪の基準を永遠に神の存在に依存しているのです。
神の創られた正しき世界は、神の心が「天」であり、神の体は「地」で、永遠に天地一体の世界ですので、神の体(利益と快楽)を「天」に置けば、神の定めた方位の通り、「地」に向かって悪化していくだけです。
教祖が神の体(利益と快楽)を「天」に置き、信者から「利益と快楽」をむさぼっていた教団がありましたけれども、悟った弟子を創れず、「地」に向かって幼稚な集団へと変質していきました。
「神の体(利益と快楽)」で「人間の心」は育たないことを立証したのです。
しかも「利益と快楽」の奪い合いとむさぼりあう世界の中で、周りを不幸だらけにしていったのです。
目の奥がいつも冷たいのは、優しければ、他人から収奪し、利益をむさぼることができなくなるからです。
相手からむさぼるためには、冷酷でなければむさぼることはできないのです。
高額な布施を強要すれば、夫か妻のどちらかが怒り、夫婦仲は険悪となり、家庭が崩壊したり、自殺者も多発するのです。
単に教祖がお金が欲しいという下らない理由で、周りが不幸だらけになっていくのです。
神の体(利益と快楽)を「天」に置いた世界では、利益と快楽、地位と立場を奪い合う世界になりますので、権力闘争を始めたり、利益を得るために人の弱みにつけ込んだり、嘘の情報を意図的に流したり、平気で人さまを騙していくようになるのです。
神の体(利益と快楽)を「天」に置けば、エゴイストの大量生産工場となり、常に利益を取って、不利益を避け、快楽を取って、不快を避けるようになり、自己にとって不快や不利益なことがあれば、内では粛清が始まり、外では恫喝訴訟が始まるのです。
苦楽の両極端を捨てて中道に入れ : 高橋信次
利益とは相対的なものであり、不利益も相対的なものです。
快楽も相対的なものであり、不快も相対的なものです。
相対的なもの、いわゆる相対的な物質(神の体)の中に人類の救いはなく、救いは絶対的なもの、いわゆる神の心の中にあるのです。
相対的な「神の体」の正体とは「矛盾」ですので、「矛盾」の中に救いはなく、神の体(利益と快楽)を心の物指しに置く限り、矛盾の大海に没していくしかありません。
真理が矛盾だらけになっていくことも避けられないのです。
西田哲学では、人生唯一の目的とは「快楽」であるとする快楽説を二つに分けて批判しています。
一つはエピクロスを代表とした「利己的快楽説」と、二つにはJS.ミルやベンサムに代表される「公衆的快楽説」です。
ベンサムは「最大多数の最大幸福」と言いましたが、ベンサムの言う「幸福」とは「快楽」のことです。
幸福と快楽は似て非なるものである : 西田幾多郎
ベンサムは、自己が快楽を得ることを幸福とすり替えておりますが、西田哲学では幸福と快楽は明確に区別されています。
エピクロスは、最大の快楽とは「心の平和(tranquility of mind)」とし、肉体の欲望は、むしろこの最大の快楽である「心の平和」を乱すものであるとしたため、欲望を否定し、逆の原理から出立したストイック(禁欲)と一致したのです。
家族関係すらこの最大の快楽である「心の平和」を乱すものであるとし、家族生活をも避けたため、エピクロスは隠遁主義とも言われています。
これが利己的快楽説です。
「利己的快楽説」にしろ、「公衆的快楽説」にしろ、いずれにしても、快楽を得ることが人生における至上の目的としているわけですが、ならばもし、Aの快楽とBの快楽が衝突したら如何、と西田哲学では問うています。
ベンサムもミルも極力自己の快楽と他人の快楽とが一致するものであると論じているが、かかる事は到底、経験的事実の上において証明はできまいと思う : 西田幾多郎
Aの国益とBの国益が衝突したら如何。
快楽説では、人生唯一の目的とは、自己の快楽であるから、到底他者の快楽を取るわけにはいきません。
西田哲学では、「公衆的快楽説」では、快楽と快楽が衝突した時、必ず他国の国益を叩き潰してでも、自国の国益を取るため、エピクロスと同様、それは必ず最後は「利己的快楽説」になると論じています。
西田哲学では、幸福と快楽の一体性と区別ができており、この区別のできていないミルやベンサムの思想よりも優れています。
もし単に快楽のみを目的とする人がいるとすれば、それは人性に悖った人であるとも残されています。
明確に幸福と快楽の相違を理解しておりますので、第一級の精神です。
悟りを偽っている人間の普遍的な特徴とは、この幸福と快楽の相違が区別できていないのです。
自己の利益と快楽を増やすことが、幸福であるとすり替えるのです。
どこかにそういう教祖がおりましたけれども、西田哲学では快楽説は、エゴイストを創るために人性にもとると言われたのであり、この快楽説は、人類の幸福に最も近い思想のように見えながら、最も遠い思想です。
エゴイストを創り続ける社会で人類の幸福はありません。
利益と快楽を奪い合う世界ができるだけです。
今の世界がそうなっています。
神の体(利益と快楽)を「天」に置いて、利益と快楽を奪い合っている未熟な文明ですが、諸神霊によれば、60%以上も地獄に堕ちているそうですから、非常に危険な世界になっています。
ここに人が10人いれば、4人も天国へ還れない世界であり、未熟な方にとっては、まるで地獄に堕ちるために肉体をもつかのような危険な世界です。
この世自身が「魂の道場」であり、「心の修行場」であるという体をなしていないのです。
神の体(物質)を「天」に置き、矛盾を「天」に置いたことが原因です。
今の人類は、神の心という「永遠の目的」を失った世界を創ったのです。
この大宇宙は、神の心が「天」であり、神の体は「地」で、永遠に天地一体の世界です。
神の心が「天」に置かれているということは、これが「人類の目的」なのです。
この神の御心を変えることのできる人間は存在しないのです。
それを今の人類は、神と真逆の世界を創り、神の体を「天」に置き、神の心を「地」に置いているのです。
大宇宙と人類が離れ、大宇宙と文明が離れているのです。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪ですので、今の世界は見事に「悪の文明」になっています。
神の体(矛盾)を「天」に置いておりますので、世界は無限に悪化を続けるのです。
この人類と世界の悪化に歯止めをかけ、食い止めていくには、方法はたった一つしかありません。
ゼウス神が述べておられたように、神の心に向かうしかないのです。
「方法は一つ。
光に向け、神に向け、神に向かうことだ。
それ以外に方法はない。」
まさに仰る通りであり、これ以外に方法はないのです。
世界を良化していくのに、神の心に向かう以外の別の方法があれば、それを提示すべきですが、誰も提示できないのです。
それは「ない」からです。
人類と世界を救う「神の光」は、神の心から来るのです。
神の心に向かわないで、「神の光」は下りてこないのです。
宗教ビジネスと称し、神の心に向かわず、神の体(利益)に向かったため、「神の光」が下りてこなくなり、高級霊の霊言を下ろせなくなった教祖がいたはずです。
「神の光」は、常に「神の心」と一体であり、神の体からは来ないのです。
神の体を追えば、追うほど、光を失っていくのです。
この地球を「光の惑星」にするには、神の心に向かうしかありません。
「神の光」は、「神の心」からしか来ないからです。
「神の光」が、地球を覆った時、そこに地上天国が建設されるのです。
一人も地獄に堕ちることなき地上天国です。
神の心と合一している人の中で、地獄に堕ちる人は一人もいません。
神の心と合一していない人が、地獄に堕ちているのです。
神人合一が善であり、神人分離が悪だからです。
この善悪の基準は、未来永劫変わることはないのです。
かく最深の宗教は、神人同体の上に成立する。
人生の意義とは、これを獲得するにある : 西田幾多郎
神の体を「天」に置けば、「神の光」を失い、神の心を「天」に置けば、「神の光」が蘇ります。
神の心を悟れば、悟るほど、光は増し、神の心を悟らなくなれば、なるほど、光は減少していくのです。
「神の光」は、常に神の心から来るからです。
世界と人類を救うのは、この「神の光」なのです。
そして「神の光」は、神の心からしか来ませんので、世界と人類を救いたければ、人類各人が神の心を悟っていくしかありません。
ゼウス神も述べておられたように、まさにこれ以外に方法はないのです。
神に嘘や誤魔化しは一切通用しませんので、悟った「ふり」をしても「神の光」は出てきません。
神の心を本音とし、悟っていきませんと、人類を救うこの「神の光」が出てこないのです。
人類と世界を救う「神の光」は、神の心から来ますので、神の心を「天」に置きませんと、神の光が下りてこなくなるため、人類と世界の救いがなくなってしまうのです。
神の体(利益と快楽)を「天」に置き、心の物指しに置いてしまったため、「神の光」が下りてこなくなった救世主がおりましたけれども、今の人類も同じであり、いくら神の体を「天」に置きましても「神の光」は下りてこないのです。
大救世主ですら「神の光」が下りなくなるわけですから例外はないのです。
人類と世界を幸福に導き、救うのは、この「神の光」なのです。
「神の光」と合一して地獄に堕ちる人はいません。
そしてこの「神の光」は、神の心から来るのです。
人類の幸福と救済を真に願うのならば、自己の心から「神の光」を出していくしかありません。
そして「神の光」を出していくには、大宇宙と同様、神の心を「天」に置き、悟っていくしかないのです。
人類と世界を救う「神の光」が、神の心から来るということは、神の心が人類と世界を救うのです。
これが神への信仰が人類を救うという意味なのです。
神への信仰がなければ、神の心を「天」に置きませんし、悟ろうともしないのです。
その結果、当然のことながら「神の光」は出てこなくなるのです。
「神の光」が出てこない限り、人類の救いはないのです。
人類と世界を救うのは、「神の光」であり、この「神の光」は、神の心からしか来ないという単純な真理知識さえ持っていれば、無神論はないのです。
無神論の時代とは、「神の光」を失った時代です。
「神の光」を失った時代とは、多くの人間が地獄に堕ちている時代なのです。
神の心を「天」に置き、悟り続けていく過程でその人間の心から「神の光」が出てくるのです。
その「神の光」が、人類を救うのです。
神の心を「天」に置けば、大宇宙と融合し、神の心を「地」に置けば、大宇宙と対立するのです。
神の心を「天」に置けば、自然界と融合し、神の心を「地」に置けば、自然界と対立し、我々の文明のほうが滅ぼされていくのです。
自然即我が善であり、自然と我との分離が悪ですので、悪は神によって滅ぼされていきます。
大宇宙や自然界の構造と仕組みは、神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体になっており、この宇宙の構造や仕組みを変えることのできる人間は存在しないのです。
大宇宙や自然界は、永遠にそうなっておりますので、もし人類が神の心を「天」に置くことができなければ、滅ぼされるのは我々のほうなのです。
この神の心が信仰の自由選択のわけないのです。
次世代の文明とは、「宇宙即我の文明」であり、「天地一体の文明」です。
宇宙や自然界と対立する文明ではなく、融合していく文明なのです。
神の心を「天」に置かなければ、それを永遠に「天」に置いておられる大宇宙や自然界と人類の心が融合できなくなるのです。
大宇宙や自然界が、今の人類のように、神の心を「地」に置くことはありません。
大宇宙は、神の心が永遠に「天」に置かれており、それが変更されることもないのです。
「宇宙即我の文明」とは、大宇宙と同様、神の心を「天」に置いた文明です。
人は、神への信仰を通して「宇宙即我」の存在になります。
神への信仰なくして、人間は「宇宙即我」にはなれないのです。
宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪ですので、神への信仰を失った時、人は「悪の存在」になるしかないということです。
逆から言えば、人間は神への信仰を通して「宇宙即我」となり、「善の存在」になるということです。



























この記事へのコメントはありません。