宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
生命が「天」であり、物質が「地」で、永遠に天地一体です。
正義が「天」であり、利益が「地」で、永遠に天地一体です。
あの世が「天」であり、この世が「地」で 永遠に天地一体です。
すべての神の法は、この天地一体の理法から編纂される。
多次元世界、この天国を支配しているのは、これ神の心(精神)。
地獄界を支配しているのは、これ神の体(物質)。
従って「地」である物質を「天」に置けば、地獄領域は増加を続けます。
神の心と神の体、この精神と物質は幸福ですべてを支配しており、エル・カンターレも支配しておりますし、あのアンパンマンよりも優しい高橋信次氏をも支配しています。
「うわぁ、大変だ、早く助けに行かないと !」
アンパンマンよりも優しいって、相当に優しいぞ、こりゃ。
自我は物質に支配されますので、自我を「天」に置けば、置いた瞬間、物質も同時に「天」に置かれます。
当サイトは「悟り一元論」のサイトです。
悟りが「天」であり、悟れば、これを原因(神の心)として結果(神の体)、世界平和という「地」があらわれます。
神への信仰と悟りによる霊的な向上と進化なくして世界平和の御利益はあらわれない。
悟りが「天」であり、世界平和が「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である世界平和を「天」に置き、絶対平和主義を主張している宗教がクウェーカーです。
好意的に見ても、世界平和という結果に比喩した善、物質に比喩した善、すなわち善意で行っている限りは方便の善であり、善の有効範囲は物質の属性の通り「有限」です。
悪く言えば、悟りも向上もないのに世界平和という御利益を「天」に置き、御利益だけをむさぼらんとしている悪となる。
これが世界平和が、いつまで経ってもあらわれない理由です。
世界平和を求めても、求めても、得られない餓鬼の世界です。
食っても、食っても、満腹にならない餓鬼の世界となる理由が、御利益をむさぼっているからです。
悟りが「天」であり、非暴力の世界が「地」で、永遠に天地一体です。
この「地」である非暴力の世界を「天」に置いてきたのがガンジーやキング牧師です。
これも好意的に見ても結果に比喩した善、自我に比喩した善、利益に比喩した善、すなわち方便の善です。
神の心を悟らず、霊的な向上もないのに非暴力の世界など永遠にあらわれることはない。
これも非暴力という御利益だけをむさぼっている。
非暴力、非暴力とマントラみたいにいくら唱えても、御利益だけをむさぼろうとしているだけですから、これも餓鬼の世界となる。
悟りが「天」であり、救済が「地」で、永遠に天地一体です。
悟るか反省すれば、これを原因として結果、救済があらわれる。
この「地」である救済を「天」に置けば、連続強盗殺人犯まで救えと強要することにより、エゴイズムを無限化していくことになる。
救済という御利益だけをむさぼっているために、これもまた餓鬼の世界を作ることになる。
人類救済を求めても、求めても、得られない餓鬼の世界です。
食っても、食っても、お腹が満たされることのない餓鬼の世界です。
自我を「天」に置けば、物質も「天」に置かれるために、「地」である世界平和、非暴力、救済も「天」に置かれ、餓鬼の世界となる。
自己都合でやるから御利益がすべて「天」に置かれる。
悟りが「天」であり、書物が「地」で、永遠に天地一体です。
悟れば、その悟った内容を書物に書きます。
悟りが「天」であり、書物が「地」で天地一体。
この「地「である書物を「天」に置くバイブル第一主義。
書物を「天」に置いて絶対化すれば、人の数だけの理解の仕方があり、解釈がある。
その解釈の相違から、いずれここに宗派なるグループに分裂し、場合によっては宗教戦争にもなる。
原因は「地」である書物を「天」に置いているためです。
書物よりも、そのすべての書物を生む心を知ることを悟りという。
悟りが「天」であり、書物が「地」で、天地一体ですが、この書物に比喩した善、結果に比喩した善、いわゆる方便の教えとなっているのが既存の古い宗教です。
この点、禅では不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏を掲げています。
教外別伝とは、最も重要な悟りは経典の外に別にあるという意味ですが、この経典の外に別に伝えるべき価値とは、悟りです。
老子は、道の道とすべきは常の道にあらずと残しています。
これを道だと言って書物に表現した瞬間、それは既に道ではなくなっている。
道とは、一人一人の心のただ中で永遠に息づいているものであり、その道をこうだと言葉で表現した瞬間、それは既に死んだ道となっている。
だから老子は、道の道とすべきは道にあらずと言った。
この点、黒住教祖は「活きものを掴め」と言った。
死んだものを掴むなということですが、活きものとは、生命に息づいている道のことであり、これは文字で表現できるものではないため禅では不立文字と言う。
仏典・コーラン・バイブルは、書物に比喩した善であり、既存宗教は方便の教えで終わっています。
今後の神の教えというのは、一人一人の心の中で永遠に息づいている神の心を一人一人が掴む、悟る、知るものとなっていく。
書物を拝んでいる内は、方便の善以外の何物でもない。
特に禅では、今はどうか知りませんが、書物を暗記し、書物の綱渡りをやっているような者に悟りの印可証明は与えません。
書物を暗記したぐらいでは、心を悟れないからです。
学者バカというのがありますが、何万冊も書物を読んでいながら、何も心を悟っていない者達です。
既存の新興宗教を含めた古い宗教に至るまで今回はすべて一旦終了させる約束だったはずですが、それは新たな神の法が説かれるからです。
そのための「法の編纂」だったのです。
既存の宗教では、例えばキリスト教でも、聖書を一言一句神の言葉というわけですが、現代では当時のイエスの悟りの未熟や間違いが色々と目立つわけです。
現代説かれる神の法というのは、大如来とは言え2000年前のイエスと同じ悟りを説くような法ではないわけです。
近現代生まれた如来は、もっと遥かに進んだ悟りをもっているのです。
教祖が自己都合で法を説けば、自我が「天」に置かれておりますので、物質も「天」に置かれ、色々と間違った教えが残ることになります。
悟りが「天」であり、富が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である富を「天」に置いた資本主義。
悟りが「天」であり、国益が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である国益を「天」に置いた政治家。
生命が「天」であり、物質が「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である物質を「天」に置いた社会主義。
悟りが「天」であり、大衆のためが「地」で、永遠に天地一体ですが、この「地」である大衆のためを「天」に置いた民主主義。
悟りが何もなく一人一人の霊的な向上や進化もないのに大衆のためなどと言う世界があらわれるわけないのです。
だから現代では半数以上もの人達が地獄に堕ちるような世界になっている。
それはやっていることを見れば分かるわけです。
神の神殿に生きていながら、すべて神の心と逆を行っているわけですから至極当然と言えば当然です。
詳細は「救世の4原理」の方に譲りますが、キリスト教で最も実害とも言える間違いは、物質にすり替えられた平等観です。
自我を「天」に置いたのか、自我に甘かったのか、あるいは悟りが未熟だったのかいずれかでしょうが、物質の平等を説いています。
善と悪の双方で物質にすり替えられています。
善の方面は、一人一票の選挙権で現代では出ています。
努力している者も一票、努力していない者も一票、正義を目的としている者も一票、富と国益を目的にしている者も一票、天国に帰天する者も一票、地獄に堕ちる者も一票、何をしても一票です。
何年努力しても一緒です。
不公平な平等観ですが、あの世と違うわけです。
何をしても平等というならば、現代では地獄に堕ちる方のほうが多いわけですから、それを天国に帰天する人と同じく一票として扱うならば、我々の社会に地獄的な価値観が反映されやすくなるのは当たり前なのです。
これは物質にすり替えられた平等観であり、神から遠い価値観が社会に反映されやすくなっている。
だから幸福の科学の時のように、さぁ、救世運動だ、と。
光の天使よ、集結せよ!
で、50名の菩薩が集結したとしますと、50票。
このスズメの屁。
トンボの屁、カエルの屁、ネズミの屁、メダカの屁。
においもせんわ。
50票で何をせえゆうんなら。
これも一人一票の平等観が招いたのです。
あの世では50人の菩薩が集結すれば、凄い力ですが、この世では50票。
このチョウチョの屁。
音も聞こえんわ。
あの世の「天」では凄い力、この世の「地」では、小さい力。
天地が切られているのです。
この天地を切ったものが、物質にすり替えられた誤った平等観であり、これは明らかにキリスト教が撒いてきたのです。
汝らのうち罪なき者のみ、この者石にて打てとも説いておりますが、罪の下における平等も物質(結果)にすり替えられています。
結果(物質)として地上に肉体を持てば、罪を犯さない者はいないという、この結果から出ている。
「神約民主論」の項でも述べましたが、罪の下における平等はないのです。
罪とは自我と物質との感応関係から結果として自我が犯すものであり、罪の下における平等はなく、罪とはその罪が重いか軽いかの重軽の差別相あるのみです。
罪の中に神はおられませんから、罪の下における平等はありませんが、善の中には神がおられますので神の下における平等はあります。
これは自我を「天」に置いたために物質も「天」に置かれた結果、物質にすり替えた平等を説いた。
キリスト教は、善と悪の双方で物質にすり替えられた平等を説いてきたのです。
聖書にはこういった間違いや悟りの未熟が目立つのです。
2000年前の教えですから仕方がないのかもしれませんが、今後の文明造りにおいては問題のある教義となっている部分が割りとあります。
古い宗教宗派、並びに新興宗教はすべて滅ぼす約束だったはずですが、法の方が崩壊している。
「・・ほうかい。それでいいのかい」
何か気のせいでしょうが全部、俺がやってるような気がする。
悟りをおろそかにし、自我を「天」に置けば、物質も「天」に置かれる。
悟りが「天」であり、救世主が「地」で、天地一体です。
「地」である救世主を「天」に置けば、宇宙と分離してくる。
通常は、悟ってから救世主を名乗るものだ。
悟りがないのに救世主宣言をする者がおりますが、だから救世主を名乗る者に碌な奴はいない。
悟りが「天」であり、悟れば、霊格が上がります。
悟りが「天」であり、霊格が「地」で、天地一体です。
この「地」である霊格を「天」に置いて大威張りする。
真顔で「・・私はね、菩薩なんですよ」
なんて言われますと笑いが込み上げてくる。
自我を「天」に置く者は、すべて霊的に未熟だということです。
悟り不足ということです。
GLA以降、こういった者達が後を絶ちません。
悟りが「天」であり、高度な悟りを説けば、これを原因として結果、有名な過去世になることもあるでしょう。
悟りが「天」であり、有名な過去世が「地」で、天地一体です。
この「地」である有名な過去世を「天」に置く。
真顔で「・・私はね、実は歴史上の誰それの生まれ変わりなんですよ」
なんて真正面から言われますと、笑いが込み上げてくるのは俺だけか?
悟りが「天」であり、悟れば、これを原因として結果、霊能力が発現する場合もあるでしょう。
悟りが「天」であり、霊能力が「地」で、天地一体です。
霊的に未熟なる者は、この「地」である霊能力を「天」に置いて大威張りする。
天地一体の理法も宇宙も見えていない。
霊能力信仰などは大間違いだ。
これらはすべて「地」である物質を「天」に置いた神への傲慢を犯している者達です。
神の心が「天」であり、神の体が「地」で、永遠に天地一体です。
これが天地一体の理法の基本ということです。
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