1985年8月18日、イエス・キリストが、幸福の科学に2回目の再臨を果たした時、キリスト教の教義で是非とも修正しておきたい点を「6点」上げていました。
1点目は、輪廻転生の法則の欠如であり、「われはアブラハムが生まれる前より在るなり : ヨハネ8-58」という言葉で言外では匂わせているけれども、明確にはこの輪廻転生の法則を打ち出しませんでした。
ちなみに「われはアブラハムが生まれる前より在るなり」という「在るなり」という神のみが使うことを許されている言葉を使ったため、イエスはその後、直ぐに石を投げられています。
アブラハムが地上に肉体を持って生きていた時、あの世の多次元世界においてイエスは、アブラハムを見守っていたわけですから、アブラハムが生まれる前より在るなりとは、字句通りであり、人間精神の根源的本質とは、神の心ですので、実際は「われは宇宙が生まれる前より在るなり」が正解です。
ただ輪廻転生を説かなかったことによって、人生は1回限りとなり、異常な恐怖を生んでしまったのです。
人生が1回限りならば、中には地獄に堕ちる人もいるわけです。
一旦、地獄に堕ちてしまったら、生まれ変わりはないと説いておりますので、永遠に地獄の業火に焼かれるしかなくなるのです。
これによって異常な恐怖が生まれたのです。
諸神霊も述べておりましたが、地獄の滞在期間は、平均的な人で大体、200年~300年ほどのようであり、200年もすれば、生前の罪を償い、天上界に上がっていき、天上界で100年ほど生活したら、また再び生まれ変わってくると言っていました。
大体の人はこの経過を辿る、と。
実際、永遠に地獄の業火に焼かれるというのはないわけです。
地獄界は、永遠の世界ではなく、いずれなくなる世界だからです。
神の創ったものは永遠になくなりませんが、人間の創ったものはなくなるのです。
罪や悪とは人間の創ったものですのでなくなりますし、地獄界も人間の創った世界ですので、いずれなくなるのです。
神が存在しなければ、人間はなくなるしかないのです。
それでも人間がなくならないのは、神が存在しているからです。
人間の心の中には、神の心がありますので、人間の心もまたなくならないのです。
人間・罪の子の思想が実害を撒いているのは、「罪があるのだ、罪があるのだ」と信じ込むことによって、「地獄はあるのだ、地獄はあるのだ」と信じ込みますので、地獄界がなくならない世界になってしまうのです。
地獄界は「なくなる世界」なのです。
罪や悪は、適切な反省と償いによってなくなっていくものです。
神の心はなくならないため「永遠」ですが、罪や悪はなくなっていくものですので「永遠」なるものではありません。
その意味で「本当に在るもの」とは「永遠」であり、永遠のみ実在と言えます。
神が罪や悪を創ったのならば、罪や悪がなくなることはありませんが、罪や悪は人間の創ったものですので、いずれ全てなくなっていくのです。
神は「ひとかけら」の罪も創っておらず、「ひとかけら」の悪も創っていません。
従って神は人間に、悪因悪果の悪果の天罰を与えることもなければ、神罰を与えることもありません。
神が人間にバチを与えることはないのです。
天罰や神罰、あるいは「バチが当たる」と脅す人間には警戒すべきであり、信じてはならないのです。
そういった人間は神の心を悟っている人間ではないからです。
キリスト教は、2000年前の宗教ですので仕方ありませんが、現代的真理論から言えば、輪廻転生の法則を説かなかったというのは、真理としては致命的な欠陥なのです。
だからイエスは、これを1点目に上げていました。
輪廻転生の法則を説かなければ、「人生の意義」を説明することはできません。
イエスが、2点目に修正したいと言っていた教義は、天国と地獄の構造論的な説明ができておらず、単純な天国と地獄論しか説かれていない点を上げていました。
あの時代では仕方がなかったと思いますが、確かにキリスト教では死後の世界、いわゆるあの世の世界が十分説かれていないのです。
常にあの世(潜在意識)が、この世(表面意識)を救うわけですから、あの世が十分説かれていないということは、救いの根源が十分説かれていないことを意味します。
ただ当時、「多次元世界」という言葉であの世の世界を説くことはできなかったでしょう。
3点目は、悟りの方法論の欠如を上げていました。
神を愛し、人を愛するのは、本義ではあるが、愛を旨とした時の悟りの段階論を説かなかった、と。
この世でも小中高大と教育にも段階がありますように、悟りにも明確な段階があるわけです。
小学生は、いきなり高校生にはなれないのです。
小学生の次は中学生に、中学生の次は高校生にと段階と順序を踏まなければ、人の心は霊的に進化していくことはできないのです。
小学生が、いきなり高校生と席を並べて同じ授業を受けたとしても、理解できませんので、適切に霊的進化を遂げていくことができなくなるのです。
この愛を旨とした時の悟りの段階論が、キリスト教には欠落しているのです。
当サイトで言えば、「自を生かし、他を生かし、全てを生かせ」という「幸福の発展段階説」です。
これは悟りの段階論です。
まず「自を生かす」という7次元神界の悟りがあり、「他を生かす」という8次元菩薩界の悟りがあります。
そして「全てを生かす」という9次元如来界の悟りがあり、悟りには段階があるのです。
幸福の科学で言えば、「愛する愛」という5次元精霊界と6次元霊界の愛があり、「生かす愛」という7次元神界の愛があります。
その上に「許す愛」の8次元菩薩界の愛があり、「存在の愛」という9次元如来界の愛があります。
この上に10次元宇宙界の「救世主の愛」があり、「愛の発展段階説」として説かれています。
キリスト教には、この愛における悟りの段階論が説かれていないのです。
これを3点目に上げていました。
4点目は、神の本義の説明不足を上げておりましたが、イエスは当時このエル・ランティのことを「天の父」と呼んでいたようであり、人格神への信仰を説いていたのです。
神に比喩した神、いわゆる方便の神への信仰を説いておりましたので、キリスト教の信仰とは、この人格神への信仰になっているのです。
多次元世界(あの世)とは、善の認識が客観化されている主客合一の世界です。
この世も主客合一の世界ですが、一言「善」と言いましても、それは「無限」ですので、上方に向かって次元世界が無限に客観化されているはずであり、10次元宇宙界で完結するような世界ではないわけです。
人格神の住む、更にその上には太陽系を司る神もいれば、銀河系を司っている神も存在し、更にその上に無限に世界が続いているのです。
それは善の無限性と主客合一の法則から十分予測できることなのです。
こういった人格神を超えた神のことを、イエスは説いていないのです。
これを神の本義の説明不足と言っていました。
ただ今回の「救世の法」では、宗教的真理の全般を整理・統合していかなければならず、統一をつけなければならないのです。
西田哲学では、「神とは宇宙の大統一者」と呼ばれていたと思いますが、この統一者とは宇宙のゴッドしかいないわけです。
宇宙のゴッドを超えた超神霊もずっと上方に続いているようですが、真の統一者を打ち出さなければならないのです。
無限に続く多次元世界でも、それを全て統一している意志があるのです。
これは全ての矛盾を統一している存在です。
7次元神界と8次元菩薩界の矛盾を統一している存在であり、9次元如来界と10次元宇宙界の矛盾を統一している存在です。
それは天国と地獄の矛盾を統一している存在なのです。
悪魔と言われる存在も、元は全て天上界にいたわけですから、その心の中心には、この統一者としての神の心があるのです。
全く同じ神の心があります。
大魔王の心の中心にも神の心はあり、大如来の心の中心にも全く同じ神の心があるのです。
天国と地獄の矛盾を統一し、大如来と大魔王の矛盾を統一している存在を神と言います。
すなわち大魔王即大如来としての神が「神の本義」なのです。
全ての宗教的真理は、この大魔王即大如来としての神によって統一されなければなりません。
万教は神に帰一すると言いますが、具体的には、この大魔王即大如来としての神に帰一するのです。
過去・現在・未来に出現してくる全ての宗教的真理は、この大魔王即大如来としての神に帰一しています。
全ての矛盾を統一している神ですので、この神を宇宙のゴッドと言っても過言ではありません。
5点目は、キリスト教と他の宗教との関係の説明不足を上げていました。
他の宗教との対比を明確にし過ぎたため、キリスト教の説く神以外は全て邪教のように思わせてしまい、他の宗教を信ずる方々を傷つけることが多かったと言っていました。
4点目の「神の本義」が、大魔王即大如来としての「統一の神」とすれば、この5点目は、この統一者から流れ出ている宗教との関係の説明不足です。
4点目は「一(統一)」を意味し、5点目は「多(多様性)」を意味しています。
双方は「一即多、多即一」で永遠に統一されています。
6点目は、イエスの伝道期間が短すぎた点を上げていました。
わずか3年の伝道期間では、壮大で膨大な法体系を残すことができず、またたった3年では、弟子の教育も十分できなかったため、色々と可哀そうな死に方をさせてしまったと言っていました。
400年後にイエスは再誕するようですが、今度は長旅になるそうです。
イエス・キリストは、キリスト教の教義の中で、この「6点」を修正したいと言っていたのです。
勘の言い方は、気づかれたと思いますが、このイエスが修正したいと言っていた「6点」のうち、最初の「3点」が、幸福の科学で「救世の3部作」として説かれたのです。
1点目の輪廻転生の法則は、『黄金の法』で説かれ、2点目の天国と地獄の構造論的な説明不足は、多次元世界として『永遠の法』で説かれ、3点目の悟りの方法論の欠如は、「愛の発展段階説」として『太陽の法』で説かれたのです。
つまり「救世の3部作」が説かれた時点で、キリスト教のみならず、既存の宗教的教義は全て超えていたのです。
この「救世の3部作」を釈尊は、「最勝の真理」と言っていました。
わたしはおまえたちに、これだけはどうしても言っておきたいのだ。
おまえたちの最低限の仕事として、人々に永遠の命を教え(※ 多次元世界)、 また人間がこの世とあの世を転生輪廻している存在であるということを、 教える必要があるということなのだ。
実は、この思想こそが、人間として生まれ、生き、成長してゆく過程において、 発見するところの最大の真理であるのだ。
ほかにいかなる地上的真理を学ぼうとも、 それらの真理の値打ちは、この真理にはかなわない。
ソース : 『仏陀再誕』(204〜205頁)
というのは、あの世の世界の全貌という「多次元世界」や「輪廻転生の法則」を適切に説いている宗教は存在しないからです。
「多次元世界」と「輪廻転生の法則」は、通常の宗教の教祖では説けないのです。
あの高橋信次氏ですら、当時は霊道現象という霊能力に依存して説いていたのです。
ある意味、天上界の「切り札」を出してきた法と言っても過言ではありません。
GLAや幸福の科学以外、どの宗教でも説かれていないはずです。
しかしてこの法を説かなければ、「救世の法」とはならず、人間の存在意義と大宇宙の存在意義の根幹を合理的に説明することができなくなるのです。
幸福の科学は、この重要な法を1994年に「統一」から「矛盾」にその方向性を変えてしまったのです。
完全なる神の心(統一)を知る道から、不完全なるエルカンの心(矛盾)を知る道へとすり替えてしまったのです。
生き神信仰の弊害が出たのです。
諸神霊から生き神信仰だけは絶対にやってはならないと注意されていたにも拘わらず、やるから出てきた問題です。
かつてミカエルはこう言っていたのです。
宗教的指導者で、このサタンたちに敗れた例は、枚挙(まいきょ)にいとまがありません。
本来、光の天使として、人びとに正しい教えを説く予定であった者が、こうした魔に魅入(みい)られて、その方向をねじ曲げたことは数多くありました。
方向をねじ曲げずに正しい教えを説くことは、じつにじつに難しいことであると思います。
ソース : 悪霊撃退法 第1章 ミカエルの章
「救世の3部作」は、大川さんにとっても、あるいは幸福の科学にとっても非常に重要な基本経典ですので、初版本に戻すべきであると強く思うわけですが、実際は難しいのです。
金口直説の仏陀の言葉と言うので、お弟子さんは誰も修正できないのです。
今の幸福の科学は、このようなものを信じているのです。
馬型宇宙人のウマリー星人です。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
猿の惑星からやってきたバナナコングです。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
ロシアを指導する伊勢エビ型宇宙人です。
返す言葉を失ってしまうよ。
一体、どこから突っ込めばいいのか。
幸福の科学の信者さんは、このようなものを真面目な顔をして信じなければならないのです。
随分、きつい信仰になっています。
「・・この信仰、きついですよ」
宇宙エリートのレプティリアンです。
宇宙人って、単なるゴリラじゃねえか。
チャンピオンベルトまでしめて。
IWGPか、それともGHCか。
やっぱりこの信仰、きついですよ。
私はとてもついていけそうにありません。
あたまおかしくね?、何とも斬新で前衛的な宇宙人です。
「ウナギイヌ型宇宙人」まで出てきました。
これを信じなければならないとすれば、心が折れて、真理の山を下りそうになります。
とても登れそうにありません。
人恋しさから山のふもとに下りたくなります。
山のタヌキか。
このような存在を信じなければならないとすれば、その信仰は、やはりきついですよ。
もしかして心、病んでね?、たくましい妄想、想像力です。
時代の先端を駆け抜けた革新的な宇宙人です。
ヤイドロンまで出てきて、一体何のことかと思えば、宇宙人の名前だそうです。
「ヤイドロンさーん」と呼べば、「ヤイドロンです」と出てくるのです。
「ウンモ星人さーん」と呼べば、「ウンモ星人です」と出てくるのです。
呼べば何でも出てくるのです。
ドラえもんの四次元ポケットみたいです。
もう、何でも出てくるのです。
この宇宙人がUFOの母艦から大川さんの身辺警護をしていたそうです。
大川さん、倒れて死んでるし。
ヤイドロン、身辺警護してねえし。
もう、無茶苦茶。
























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