※ 本サイトについて
記事数が膨大になりますと、そのサイトは一体、何を意図し、何を目的にしているのか分からなくなり、一体どういった内容のサイトなのか、その全体を理解することが難しくなります。
簡単に言えば、当サイトは「真理のサイト」であり、「神の心を最高度に編纂」することを目的としているサイトです。
「最高度」と言うことは、この地球上で最も高い「神の心」を編纂し、説いていくということです。
本サイト以上の「神の心」を説ける宗教団体は地球上に存在せず、また教祖も存在しないということです。
唯一「幸福の科学」の大川隆法氏が、当サイト以上の「神の心」を説ける可能性のあった人物ですが、使命を果たさずに死亡されておりますので、もう無理です。
次世代の文明は「エルカン文明」よりも、もっと普遍性のある「宇宙即我の文明」のほうが「まし」であり、次世代の文明は、「天地一体の文明」です。
本サイトは、大魔王即大如来としての「神の心」を編纂するサイトであり、「救世の法」の完成と成就が目的です。
「救世の法」の柱は、4点あり、この内どの一つが欠けても「救世の法」にはなりません。
1. 多次元世界(あの世の世界 / 潜在意識の存在)
2. 輪廻転生の法則
3. 幸福の発展段階説(悟りの段階論)
4. 反省法
「救世の法」の要諦とは、「一体、人間は何のために生きているのか」、あるいは「何故、大宇宙は存在しているのか」という二つの存在とその問いに関する根源的な答えを、神ご自身の目から見て合理的に解明した法です。
既存の宗教の中では、この「二つの問い」に関して、これを合理的に説明した宗教が存在しないのです。
今回の「救世の法」に、最も近い法を遺されたのは、高橋信次氏時代のGLAの教えと言っても過言ではありませんが、これを更に完成成就するために「幸福の科学」が設立されたわけですが、潜在意識の釈尊のほうは知っておられたようですが、教祖の表面意識のほうが「救世の法」の意味を理解していなかったため、あの世(潜在意識)とこの世(表面意識)が切られてしまい、結局「救世の法」の完成と成就はなくなり、崩壊したままとなって、真理が途中で途切れたような内容で終わっています。
この「救世の法」を、本来の意味に戻しておくことも、この本サイトの重要な目的の一つです。
「本質」の定義とは、「もしその一つが欠ければ、その全体に意味がなくなる或る者」です。
人類各人の「心」と宇宙の全体から「神の心」が欠けてしまえば、人類と宇宙のその全体に意味がなくなってしまうため、「神の心」とは、人類と大宇宙の「本質」と言えます。
「神の心」が欠ければ、人類全体と宇宙の全体に意味がなくなるからです。
この大宇宙における全ての「矛盾」を永遠に統一している存在を「神の心」と言います。
悪魔とて、かつては天上界にいたわけですから、大魔王の心の中にも「神の心」はあり、大如来の心の中にも全く同じ「神の心」があるのです。
大魔王と大如来の絶対矛盾を永遠に統一している心を「神の心」と言うのであり、それが意味することは、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類にとって、唯一「平等」な存在とは、「神の心」だけであると言うことです。
大魔王と大如来は、神の心の下において永遠に「平等」であるということです。
人間の「心」の根源的本質に「神の心」はあるのであり、この「神の心」を否定した場合、過去・現在・未来の全人類から永遠に「平等」が失われます。
「平等」と言う限り、そこには自他との比較において微塵も差異があってはならないのであり、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の人類一人残らずが有するもののうち、完全に同一・同質・同量・同規模でなければ、それを「平等」とは言いません。
「法の下における平等」も厳密に言って存在しませんし、「死の下における平等」も平等とは言えません。
「機会の平等」も平等とは言えず、外界に基準を置く限り、人類に平等はありません。
アインシュタイン博士が「相対性理論」で論証されましたように、物質とはイコール時空であり、時間と空間は相対的なものであり、矛盾を意味しておりますので、外界に基準を置く限り、それは全て差別相であり、平等はないのです。
万物は神の差別相である : スピノザ
人類の「平等」は、外界に求めても存在せず、もし「平等」が存在するとすれば内界、すなわち心の中に存在します。
もし人間の「心」の中心に「神の心」が存在するならば、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類一人残らずに対して「完全に平等」と言える存在は、「神の心」だけです。
従って人類が神の存在を否定した場合、人類に「平等」はありません。
人類に「平等」がないとは、人類に共通性がないということであり、人類に普遍妥当する価値の一切が存在しないということです。
「神の心」を否定した場合、我々人類はその普遍妥当する価値観と高邁な思想の全てを失うのです。
神の存在を否定すれば、同時に我々人類の存在も否定されるということです。
従来、人類が信じてきた「平等」とは、あくまで物質に比喩した方便の平等であり、間違いとまでは言いませんが、「真の平等」とは言えません。
「法の下における平等」も、法は各国において異なるものであり、同じ国でも過去の法と現在の法、並びに未来の法も異なりますので、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類一人残らずに対して完全に「平等」とは言えません。
「死の下における平等」も、ある者は10代で死亡し、ある者は70代で死亡するわけですから、「死の下における平等」は、あくまで肉体に比喩した方便の平等であり、厳密に言えば「平等」ではありません。
「平等」と言う限り、そこには自他との比較において微塵も差異があってはならないのであり、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類一人残らずに対して、完全に同一・同質・同量・同規模でなければ、それを「平等」とは言いません。
それは人類には、たった一つしか与えられていないのであり、一人一人の「心」の中心に全く同じ「神の心」につながり、有しているという一点においてのみ、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類は、永遠完全に「平等」と言えます。
従ってこの「神の存在」以外は、全て差別相であり、「平等」は存在しません。
この「神の心」は、自他が有するもののうち、そこには微塵も差異がなく、完全に同一・同質・同量・同規模であり、全ての矛盾を永遠に統一している存在です。
天国と地獄の矛盾、大如来と大魔王の矛盾、天使と悪魔の矛盾、自分と他人の矛盾、過去と現在の矛盾、現在と未来の矛盾、自国と他国の矛盾、全ての矛盾を永遠に統一している存在です。
神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎
今後も人類が「平等」を認めますならば、神の存在は認めざるを得ず、神の存在は否定したくても、否定できないということです。
我々人類に与えられているもののうち「平等」なのは、神の心だけだからです。
従って神の心を否定すれば、人類に平等はありません。
それでも神の存在を否定したければ、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類に対して、微塵も差異のない「完全に平等」なるものや存在を「神の存在」以外で、人類に対して提示しなければならないのです。
自他が有するもののうち、そこには微塵も差異のない存在です。
人間の肉体は、顔形、指紋・声紋、身長・体重、髪の毛の本数から生理現象に到るまで悉く差異があり、平等はないのです。
すなわち人間を肉体的存在と見る限り、そこに人類の平等はありません。
つまり人類が平等を認めますならば、人間は肉体的存在ではなく、霊であり、心であり、人格的存在である事実を認めるしかないのです。
その人格にもみな個性があり、差異があるわけです。
人間の個性だけを見ましても、そこに「平等」はありません。
個性の差異があるからです。
「完全なる平等」という限り、そこには微塵も差異があってはならないのです。
肉体に「平等」はないわけですから、もし「平等」が存在するとすれば、その個性の相違と矛盾がある一人一人の心の中心にあるのです。
個性の矛盾を統一している存在です。
すなわち自他一体の神であり、大魔王即大如来としての神です。
つまり「心」の中心に人類に普遍妥当する全ての価値観を永遠に担保している存在があるということです。
その神の心が自己を客体化した存在が大宇宙ですので、方便の意味において大宇宙の存在の下において人類は「平等」と言ってもいい。
神の体(大宇宙)は、神の心が永遠に統一しています。
もし人間の「心」に神の心が存在していなければ、人類に平等はなく、共通性もなく、普遍的な価値もないということです。
人間を中心に置いたヒューマニズムの見地から言えば、その人間の肉体にも「平等」はなく、その心も個性ゆえに「平等」はありませんので、自他の個性は矛盾しており、その矛盾が他の個性との対立を生み、神の創っておられない悪を現象化していきます。
対立のあるところに戦争があり、暴力があり、差別があり、虐待があり、矛盾があるのです。
対立のないところに戦争はなく、暴力もなく、差別もなく、虐待もなく、矛盾もないのです。
人間の「心」の中心に永遠に着座しておられる神の心に対立や矛盾はなく、人類80億人の個性の相違と矛盾を永遠に統一しています。
人類が何百億人存在しようとも、その個性の「矛盾」を、全て心の中心から永遠に統一している存在を神の心と言うのです。
つまり人類の真の統一者とは、神の心なのです。
過去・現在・未来の人類を永遠に統一しているのは、人間でもなければ、人格神でもなく、この大魔王即大如来としての神です。
対立のないところに戦争はありませんので、ソクラテスが残しておられるように、一人一人が自己の「心」を悟り、汝自身を知り、神の心を悟っていけば、そこに世界平和があらわれるということです。
神とは永遠の統一者であり、全ての矛盾を統一しているため、そこには対立がなく、対立がないために戦争や暴力がないのです。
つまり「平和」とは、神の心のことを言うのであり、神の心を無視して「平和」がこないのは、そこには必ず対立があり、矛盾があるからです。
対立のあるところに戦争があり、暴力があるのです。
人類から戦争や暴力をなくしたければ、人類の対立をなくしていかなければならないのです。
すなわち人類という矛盾した存在を、永遠に統一している「神の心」を「天」に置かなければならないのです。
これが信仰の重要性です。
この神の心にしか統一はなく、平等もないからです。
「神の心」以外に、過去・現在・未来の人類に「平等」があると言われるならば、それを提示するべきなのです。
その平等の存在には、対立がなく、相違もなく、矛盾もありませんので、我々未熟な人類の世界から「戦争と暴力」をなくしてくれる存在なのです。
神の存在以外に「平等」があると言われますならば、それを提示すべきです。
そのようなものは永遠に存在しませんので、人類は神の存在を認めなければなりません。
神の存在を認めるとは、人類の平等を認めるということであり、人類の共通性を認め、人類に普遍妥当する高慢な思想や価値観を認めるということです。
神の存在が、人類の心の中でその価値を永遠に担保して下さっているのです。
神が人類に対して何かを喋るわけではありませんけれども、未熟な我々人間の心の中心に永遠に存在してくれているだけで、人類への「大いなる愛」になっており、「永遠の愛」となっているわけですから、神の存在とは、まさしくそこに存在してくれているだけで「存在の愛」を体現しています。
未熟な人類の世界から戦争をなくし、暴力をなくし、差別をなくし、虐待をなくしていくには、個々人が自己の心の本質に存在する神の心を悟っていくしかありません。
汝自身を知れ : ソクラテス
汝の「心」の中心に存在する神の心を知れ、全ての全てを知れということです。
ここに真の世界平和があり、真の非暴力の世界があり、犯罪をなくし、差別をなくし、死刑制度をなくし、児童虐待をなくし、地獄に堕ちる人間をなくしていくのです。
「平等」のないところに対立があり、矛盾があり、そこから無限の悪が現象化してくるのです。
もし人類が「神の存在」を否定すれば、人類には差別相と矛盾しか残りませんので、その差別相と矛盾が、新たな対立を生み、その対立から無限の悪が現象化し、多くの不幸が生産されていくのです。
「神の存在」を否定すれば、人類は自動的に不幸に堕ちていく創りになっているのです。
誰も不幸になりたい人はいないわけですから、真に人類の救済と幸福を願うならば、「神の存在」を信じ、信仰に覚醒していかなければなりません。
神への信仰が、人類と世界を救うのです。
すなわちこれが真の平等です。
「神の存在」を否定すれば、人類から平等が失われ、救済が失われ、幸福が失われてしまうわけですから、神の存在は認めざるを得ないわけです。
それでも「神の存在」を否定したい方は、過去・現在・未来の天界・現界・地獄界に住する全ての人類に対して「完全に平等」と言える存在を提示しなければなりません。
それを提示せずに「神の存在」を安易に否定するならば、それは人類の平等を否定し、人類の救済を否定し、人類の幸福を否定する方ですので、道徳的な非難を受けなければなりません。
「神の存在」以外に人類に「平等」は存在しないということです。
従って今後も人類が「平等」を認めますならば、「神の存在」は認めざるを得ず、信じざるを得ず、肯定せざるを得ないということです。
そして人類が「平等」を認めますならば、今度はあの世(潜在意識)の世界も認めざるを得なくなるのです。
あの世の世界の存在を否定する方は、死後の世界はなく、人間の心というものは死後、「無」になると言っているのです。
死後、人間の「心」が「無」になるならば、その人間の「心」の中心に存在する「神の心」も同時に「無」になりますので、「神の心」が「無」になれば、人類から「平等」が失われてしまうのです。
あの世の存在を否定すれば、平等が失われ、救済が失われ、幸福が失われますので、神の存在と同様、あの世の存在も認めざるを得なくなるのです。
あの世の存在を認めるとは、人間の潜在意識の存在を認めるということです。
あの世の世界とは、個々人の潜在意識に存在しているからです。
人類がその「平等観」を肯定し、認めますならば、「神の存在」と「あの世の存在」は、今後、永遠に認めざるを得ません。
「平等」が失われてしまうため、否定したくても、否定できなくなるのです。
「神の存在」と「あの世の存在」の問題とは、神の真善美の根幹に関わっている問題です。
全ての神の心とは、永遠にここから下りてくるからです。
本サイトは、この「神の心の最高度の編纂」を目的としたサイトであり、「救世の法」の完成と成就を意図しています。
宇宙は神の心の表現体であり、神の体である : 高橋信次
宇宙は神の所作物ではなく、神の表現である : 西田幾多郎
すなわち我々人類が暮らしている大宇宙や自然界では、神の心が永遠に「天」に置かれ、神の体が「地」に置かれている天地一体の世界なのです。
神の心(真理)が「天」であり、神の体(現象利益)が「地」で、永遠に天地一体です。
未熟な人類が創っている今の文明は、この大宇宙や自然界の構造や仕組みと逆の文明になっており、相対的な神の体(利益や国益)を「天」に置き、神の心(真理)を「地」に置いて、自然界や宇宙と対立してしまっているのです。
大宇宙や自然界の存在のことを神と言いますので、自然界(神の存在)と対立して生き残れる文明は存在しません。
あまりに酷い文明の場合、いつでも「国破れて山河あり」となり、我々の文明のほうは崩壊していきますが、山河が崩壊することはないのです。
自然界は神であり、完全ですので、人類が如何に腐敗した文明を創ろうとも、最後は文明のほうが崩壊し、自然界は「山河在り」で残るのです。
国は戦争に敗れますとなくなりますが、戦争で負けようが、勝とうが、山河は変わりなくそこに存在しています。
神の心とは、国は破れても、絶対破れない山河と自己を合一する「山河即我」を悟る道です。
「自然即我」の道であり、「山河(自然)即我」の悟りです。
人間の創った過去の文明は、全て崩壊していきましたが、人類と共に生きる自然界が崩壊したことはないのです。
絶体崩壊することのない山河と我を合一し、自然界と我を合一する悟りを神人合一の悟りと言います。
今は自然界と文明が分離してしまっているのです。
神の心(真理)が永遠に「天」に置かれている自然界に対して、我々の文明のほうは、神の体(利益と快楽)を「天」に置いておりますので、自然界と離れ、対立しているのです。
大宇宙と文明が離れ、自然界と人類が対立し、分かれてしまっており、「宇宙即我の文明」ではなく、宇宙や自然界と文明が分離してしまっているのです。
この文明を大宇宙や自然界の構造と仕組み通り、神の心を「天」に置き、神の体を「地」に置いた「天地一体の文明」に戻し、「宇宙即我の文明」を建設していかなければならないのです。
これを具体的に実現していくために、本サイトでは「神約民主論」を提出しています。
既存の民主主義は、神への信仰が必然ではなく、「信仰の自由」になっておりますので、その「自由と平等」の二大概念が矛盾しているのです。
「神の存在」を否定して「平等」は、どこにも存在しないのに、「神の存在」を無視して「平等」を教えているのです。
人間の表面意識(自我)は、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておりませんので、人類が神への信仰を失いますと、人間は必然的に相対的な自我のままに生きることになりますので、同じく相対的な物質(神の体)の方面と心が同通し、物質の属性を有した思想や行動を取ることになるのです。
そして物質の属性である相対的な「利益と快楽」を「天」に置いてむさぼり、人類自身が世界腐敗の温床になっていくのです。
既存の民主主義において矛盾している「自由と平等」の二大概念の矛盾を解消し、統一止揚するには、「神の存在」を持ってくるしかありません。
過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類は、「神の心」の下においてのみ永遠に「平等」なのであり、その平等の神の心に従って人類各人が「自由」を行使した時、「真理は汝を自由にせん」となり、全人類は真の自由を実現していくのです。
「自由と平等」の矛盾は、神の存在によって統一止揚され、その矛盾は解消されます。
「自由と平等」の概念が、正確な概念に戻るということです。
そしてこの「神の心」は、既存の民主主義のような「人民共通の利益」ではなく、「人民共通の人生の意義」なのです。
神の存在によって「自由と平等」の二大概念の矛盾はなくなり、正確な概念に戻りますので、『神約民主論』国家では、神の心(真理)が「天」に置かれ、神の体(現象利益)が「地」に置かれる「天地一体の文明」となり、眼前の大宇宙の存在と融合していく「宇宙即我の文明」になるのです。
この「宇宙即我の文明」が、次世代で建設すべき新たな文明です。
これよりも優れた文明論がありますならば、そちらに席を譲りますが、「宇宙即我」の悟りは、最高霊域共通の悟りですので、これ以上の文明と言うのは難しいでしょう。
大宇宙や自然界の存在のことを真の神と言いますので、宇宙や自然界と人類との融合とは、神の心と人類の心との融合です。
すなわち「宇宙即我」の悟りや「自然即我」の悟り、あるいは「天地一体」の悟りが、「神人合一」の悟りなのです。
かく最深の宗教は、神人同体の上に成立する。
人生の意義とは、これを獲得するにある : 西田幾多郎
神の心と融合して地獄に堕ちる人はいません。
我々の暮らす大宇宙や自然界では、永遠に神の心が「天」に置かれておりますので、人類のほうがその神の心を「地」に置けば、必然的に自然界と文明が分離すると同時に対立していくのです。
人類が信仰を失いますと、神の心と融合できなくなりますので、神への信仰を失いますと、自然界と文明は対立し、文明のほうが腐敗・悪化を続け、最後は我々の文明のほうが崩壊していくのです。
その時でも山河や自然は残っているのです。
世には往々、何故人間は神の心を信じなければならないのかを問う人がおりますけれども、我々が生活している大宇宙や自然界では、永遠に神の心が「天」に置かれているからです。
従って未熟な人間のほうも大宇宙や自然界と同様、神の心を「天」に置かなければ、神の存在(自然界・大宇宙)と人類が対立・分離し、離れてしまい、自動的に人類自身が「悪の存在」になってしまうからです。
神御自身の目から見た「悪」とは、神の心と人間の心が離れることを言うからです。
神人合一が善であり、神人分離が悪なのです。
神の心と人間の心が合一すれば、全員天国に還っていきますので「善」となり、神の心と人間の心が離れれば、全員地獄に堕ちて不幸になり、「悪」になるのです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当する永遠不変の「善悪の基準」とは、眼前の大宇宙の存在であり、自然界の存在であり、神の存在なのです。
大宇宙の存在と合一できれば「善」であり、合一できなければ「悪」になるのです。
自然界の存在と合一できれば「善」であり、合一できなければ「悪」になるのです。
大宇宙や自然界の存在のことを神と言いますので、未熟な人間は神の心と合一できれば「善」となり、合一できなければ「悪」になるのです。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ
すなわち神の心と同じくできなければ、正しい法ではなく、悪になるということです。
我々未熟な人間が、果たして「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに眼前に存在している大宇宙や自然界の存在に、永遠に依存しているのです。
大宇宙や自然界の存在のことを神と言うからです。
過去・現在・未来において決して変わらない人類の「善悪の基準」とは、大宇宙の存在であり、神の存在なのです。
これは時間経過や空間の位置変化、あるいは立つ立場によって相対的に変化していくような善悪ではないのです。
過去の人類であろうが、未来の人類であろうが、大宇宙と自己が合一できれば「善」であり、合一できなければ「悪」なのです。
文明も同じであり、自然界と文明が融合できれば「善の文明」なのであり、もし現代の文明のように自然界と文明が融合できなければ、それが「悪の文明」になるのです。
我々未熟な人類は、その「善悪の基準」を永遠に神の存在に依存しているのです。
「善の存在」を目指している人間からすれば、自己が「善の存在」となり、「善の文明」を創ろうとすれば、どうしたって神の心と融合していくしか道がないのです。
神の心と離れてしまえば、自分自身が「悪の存在」になってしまうからです。
今回の救世運動の要諦は、大宇宙の絶対的権威の確立、人間精神の根源的本質の客観化であり、神の存在の永遠化です。
過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類は、永遠に神の心の下において「平等」であるという事実を認めるという、ただこれだけのことなのです。
この大宇宙の絶対的権威を確立すれば、天界・現界・地獄界の三千世界が根源から変わるのです。
人類の心が変わりますので、大気から土壌、生態系から気候まで変わり、虫けら一匹まで救うのです。
今の人類はその心が汚いために大気や土壌、生態系や気候までおかしくなり、草花まで汚い空気と養分を吸収しているのです。
心が変われば、生態系も変わり、大気も土壌も変わり、草木から虫けらまで救うのです。
「救世の法」とは、人間だけを救う法ではないのです。
庭先にいる蟻んこ一匹までも救う法を「救世の法」と言うのです。
この世が変われば、次に神の心を良く知って天界へと帰天していきますので、天上界の全体をも神の心の方向へと押しやり、天上界をも進化させていくのです。
当然、地獄界のあり方も今までとは異なり、根源から変化していくことになります。
これが天界・現界・地獄界の三千世界の根源的改造の真理ですが、何のことはありません。
過去・現在・未来の天界・現界・地獄界の全人類は、神の心の下において永遠に平等であり、一つであるという事実を認めるだけの話なのです。
これを認めるだけで、天界・現界・地獄界の三千世界が根源から変わるのです。
生態系から虫けら一匹までも救う法を「救世の法」と言います。
これが「大魔王即大如来」としての神です。
本サイトは、この「大魔王即大如来」としての神の心を、あらゆる角度から探究し、最高度に編纂していくことを目的として開設されているサイトです。
Creator’s Room / 管理人 : 桑田 英司(クワダ ヒデシ)
























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