2025年4月21日午前7時35分、ローマ教皇・フランシスコが永眠されました。
88才でした。
ご冥福をお祈りしています。
公務を再開しておりましたので、回復したのかなと思っておりましたら、やはり具合が悪かったようです。
死因は脳卒中と心不全でした。
カトリック信者「14億人」のトップの死去です。
フランシスコ教皇の遺言全文はこちらです。
コンクラーベは、5月6日から11日の間に行われるようです。
新教皇を決める選挙であるコンクラーベとは、ラテン語で「鍵をかけて」と言う意味であり、13世紀に3年間も教皇が決まらない事態を受け、枢機卿達を部屋に閉じ込め、鍵をかけ、教皇選出を促したことが始まりとされています。
80才未満の枢機卿が選挙権を持ち、135名の枢機卿が秘密裏に投票を行います。
3分の2以上の票を獲得するまで投票は繰り返され、新しい教皇が決まればシスティナ礼拝堂の煙突から白い煙が上がり、決まらなければ黒い煙が出されます。
具体的には、ミケランジェロの「最後の審判」が描かれたシスティナ礼拝堂の密室で行われます。
「最後の審判」の部屋と言うのが象徴的です。
フランシスコ教皇の死を受けて、あの「マラキの預言」が再び注目を集めています。
世の終わりとバチカンの終焉が預言されているからです。
「ローマ聖教会への極限の迫害の中で着座するだろう」
(In psecutione. extrema S.R.E. sedebit.)
「ローマびとペトロ、彼は様々な苦難の中で羊たちを司牧するだろう。
そして、7つの丘の町は崩壊し、恐るべき審判が人々に下る。
終わり。」
(Petrus Romanus, qui paſcet oues in multis tribulationibus : quibus tranſactis ciuitas ſepticollis diruetur, & Iudex tremẽdus iudicabit populum ſuum. Finis.)
「7つの丘の町」とは、「ローマ」を意味しており、「7つの丘の町」の崩壊とは、つまりバチカンの崩壊です。
バチカンの崩壊と共に人類への裁きが始まり、「最後の審判」が来る。
ただフランシスコ教皇は、既に死亡しておりますので、この「マラキの預言」は外れたのではないかと思っておりましたら、色々な解釈があるようです。
もとが二段落になっていることから、信奉者の中には『オリーブの栄光』の後に『迫害の中で』(In persecutione) と『ローマびとペトロ』(Petrus Romanus) に対応する2人の教皇が控えていると解釈する者もおり、今後、世界の終末やローマ教会の終焉が起こらなかったときに、さらに細分化させていって標語を増やし、予言の延命を図る信奉者が現われるのではないかとも推測されている。
111番目の「オリーブの栄光」であるベネディクト16世の後、「迫害の中で」と「ローマびとペトロ」に対応する二人の教皇が出てくるとする解釈もあるようです。
これですと「迫害の中で」に対応しているのがフランシスコ教皇であり、その後に「ローマびとペトロ」が出てくる。
その後、ローマのバチカンが崩壊し、人類に最後の審判が下されることになります。
そして「終わり」です。
「終わり」は、次の「始まり」を意味します。
その他、111番目の教皇の後、いくらでもカトリックは続いていくという解釈もあるようです。
ここまでくれば、単なる「こじつけ」にしか見えません。
つまりどうとでも解釈できるわけです。
以前は「ローマびとペトロ」とは、フランシスコ教皇のことであると言っていたのです。
フランシスコ教皇は、イタリア系の血筋であり、フランシスコもアッシジの聖フランシスコから取っており、アッシジの聖フランシスコの本名は「ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルド―ネ」であり、名前に「ピエトロ」、つまり「ペトロ」が入っているため、「ローマびとペトロ」とは、フランシスコ教皇に違いない、「マラキの預言」はまた当たったと解釈していたのです。
だから死亡したフランシスコ教皇が「最後の教皇」と言われてきたのです。
ファティマ第三の予言とは、教皇が死体の転がっている崩壊したローマの町を歩き、十字架のある高い山に登り、祈りを捧げる。
そして最後は兵士に撃ち殺されるという予言です。
「マラキの預言」と同様、バチカンの崩壊を予言しているのです。
「マラキの預言」と「ファティマの予言」は、同じことを予言していると言われてきたのです。
それがまた解釈を変えているわけであり、つまりどうとでも解釈が可能なのです。
フランシスコ教皇死去で次期教皇は… 900年前の「聖マラキの予言」に注目集まる 東スポweb
バチカン(教皇庁)の「秘密文書館」で発見され、12世紀の書物とされる「全ての教皇に関する大司教聖マラキの預言」は、別名「聖マラキの予言」「教皇の予言」とも呼ばれ、1143年のケレスティヌス2世から始まり、2027年の「ローマ教皇ペテロ」まで112人の教皇に関する予言が記されている。
さらにはキリストの再臨までも予言しているという。
この書物が現在、騒がれているのが、フランシスコ教皇の有力後継者候補が9人おり、そのうち3人がペテロという名前であるという事実だ。
「ローマ教皇ペテロ」に関する記述によれば、〝最後の教皇〟は大混乱の時代に教会を統率し、ローマの崩壊と教皇制の終焉に至るという。
色々と突っ込みどころ満載ですが、キリストの再臨と言いますけれども、1980年代に既にイエス・キリストは、幸福の科学に再臨しており、天上界から地上界に霊言を2冊出しています。
聖書には、確かにイエスの教えが残っておりますけれども、あの聖書はイエス自身が直接書いたものではありません。
聖書は、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの順にイエスの死後、40年後から90年後にまとめられた書物です。
ところが幸福の科学に再臨したイエスの2冊の霊言は、霊天上界から直接イエス・キリストが書いた書物です。
内容は、もちろん文句なしですが、日本では何十万人という証人がいるわけであり、あのキリストの再臨をなかったことにはできないわけです。
日本は仏教と神道の影響が強く、キリスト教徒は190万人ほどしかおりませんので、イエスが再臨しても大した影響はありませんでした。
ただこれがキリスト教の影響が強い欧米ですと、たった2冊とは言え、大変なことになっていたはずです。
それをイエスの言葉と認める者と認めない者とで大論争が起こっていたでしょう。
内容は高度な真理を説いておりましたので、いずれ本物のイエス・キリストと認めざるを得なくなっていたでしょうが、その時バチカンは崩壊するのです。
それをイエス・キリストの言葉と認めれば、必然的にバチカンは崩壊します。
だからたとえイエス・キリストが再臨したとしても、そのキリストの再臨を決して認めないのはバチカンなのです。
キリストの再臨を認めてしまえば、バチカンは崩壊してしまうからです。
その意味でバチカンは大川さんに救われたのです。
1991年に大川さんが生き神信仰と言うバカをやってしまい、救世運動をストップさせたために、バチカンは未だに存続できているのです。
予言は全て外れ、「救世の法」は矛盾だらけとなって崩壊し、大川さんも死んでしまいました。
イエス・キリストを中心に一致団結していた霊天上界が、形の上でも悪魔に負けたという結果に終わったのです。
大救世主が何の使命も果たさないまま死亡しているわけですから、言いわけもできず、「ぐうの音」も出ない敗北です。
職業戦士は、まさに戦士ですから負けると死ぬのです。
ほんと、負けた戦士ばっかりですが。
神の心を舐めすぎです。
神の心によって生きようとしないから死ぬのです。
神の心とおのれの心が合一していれば、使命を果たさずに死ぬことはありませんし、地獄に堕ちることもないのです。
使命を果たさずに死んだということは、神の心と自己の心との合一を失っていたということです。
霊道を開いているにも関わらず、真理の探究を怠れば、悟りを失い、光を失いますので魔に蹂躙されていくのです。
魔に蹂躙されないためには、神の心をみずから悟るしかありません。
自己の心は神の心によってしか守ることはできないのです。
利益をいくらむさぼっても心が守れないのは、今の人類が証明しています。
神の心を悟れば、自己の心から神の光が出てくるのです。
その神の光が自己の心をあらゆる魔から守ってくれるのです。
これが人の心は、神の心の一つ一つによって生きるという意味なのです。
今更言っても仕方ありませんが、6割もの人間が地獄に堕ちている最悪の世界で「救世の法」がなくなってしまったのです。
「救世の法」は数千年残ると言われていたわけですから、今後の数千年、人類の心を闇で覆ったことになります。
大変な事態であり、これが単なるカルト教祖の一人の死の問題で片付くわけありません。
イエスや高橋信次氏だけならば、そういう結論になるのです。
過ぎたことですので笑うしかありません。
何故、そこで笑う。
だって泣いたってしようがないし。
大救世主が生き返るわけでもなし。
東スポの記事では、「2027年の『ローマ教皇ペトロ』」まで予言されていると言う見慣れぬ「マラキの預言」が入っておりますが、何のことかと思えば、題名は記載がないので分かりませんが、2024年に公開されたあるドキュメンタリーを根拠にしているようです。
この記事によれば、1585年に教皇シクストゥス5世が書いたとされる「徴候の真ん中にある車軸」という言葉があり、「マラキの預言」の中間点を示すものとして解釈しているのです。
「マラキの預言」は、1143年のケレスティヌス2世から始まっておりますので、
1585年−1143年=442年
という年数が出てくるのです。
教皇シクストゥス5世は、これを折り返し地点である「真ん中」と述べておりますので、
1585年+442年=2027年
となり、「2027年の『ローマ教皇ペトロ』」の予言になっているのです。
実際、多くのキリスト教徒がこれを信じており、2027年がキリストの再臨の年かもしれないと思っているようです。
また再臨するの?
この世に自由に出たり、入ったり、出たり、入ったりと、コンビニじゃないんだから。
勝手に出たり、入ったりしてもらってもね。
こっちは霊能ごっこで遊んでいるのではなく、厳しい修行をしているのです。
大体、大川さんが死んでしまったのに、どうやって出てくるのでしょう。
出ようがないでしょう。
ただキリスト教徒はこの年に、イエスが生者と死者を裁きにくると信じているようです。
根拠のないことを信じ込むのは勝手ですが、人間と無関係に勝手に雲に乗ったイエスがあらわれ、再臨し、人類を裁くと言うことはないのです。
もし再臨するとすれば、それは必ず特定の人間の心を通して再臨してくるのです。
真理と共に再臨してくると言ってもいい。
人類と無関係にたなびく黄金の雲に乗ったイエスが、ハリウッド映画のようにど派手に再臨し、人類を片っ端から裁き散らしていくということはないのです。
必ずその世界で最も高い真理を悟っている者の心を通して再臨するのです。
それが今回は幸福の科学の大川さんだったのです。
その大川さんは既に死んでいるわけです。
だから出ようがないでしょう。
諸神霊が裁くと言いますか、公平に評価していくと言いますか、そういった現象は確かにありますが、それは神の目から見た善人が残り、悪人がいなくなるという現象であらわれるのです。
『黄金の法』で説かれている神光物理学の第一のテーゼである神の光の親和性によってそうなるのです。
神の光と親和性のない心を持った人間は淘汰され、親和性のある心を持った人間は残るのです。
数は関係ないのです。
これは神の光による干渉によって自然とそうなるのであって、人間が思っているような淘汰や裁きではないのです。
これがなければ世界の浄化もないでしょうから、それはあるでしょう。
それを「最後の審判」と言ってもいいですが、ただキリスト教徒が、漠然と思っているような再臨はありません。
ただフランシスコ教皇が死亡してしまいましたので、世の終わりは近いと感じる人は増えているようです。
「2027年の『ローマ教皇ペトロ』」が「最後の教皇」となり、世界の終わりがくる。
世界の終わりは、次の世界の始まりです。
次の世界は、今までの世界とは根源から全く異なった世界になります。
今の神の体を「天」に置いた傲慢な世界は、神の心を「天」に置いた謙虚な世界へと変わっていくのです。
傲慢な人類から謙虚な人類になるのです。
世界の終わりが近いと感じる人が増えているのは、次のローマ教皇の候補者である「9名」の内、「3名」が、「マラキの預言」に出てくるあの「ペトロ」の名前を持っているからです。
上記のデイリー・メールの記事にもあるのですが、日本語ではこれです。
フランシスコ法王の後継者は誰か?可能性のある9人の候補者 アラブニュース
ピーター・エルド枢機卿(ハンガリー、72歳)
ピエトロ・パロリン枢機卿(イタリア、バチカン外交官、70歳)
ピーター・コドォ・アピア・タークソン枢機卿(ガーナ人、バチカン関係者、76歳)
「ピーター」とは「ペトロ」であり、「ピエトロ」も「ペトロ」です。
「ローマびとペトロ」とありますので、イタリアのピエトロ・パロリン枢機卿しか当てはまりません。
詳しくは知りませんが、次期教皇が「ペトロ」になる確率は「33%」です。
バチカンは慣例として教皇の名前に初代教皇「ペトロ」の名前は使いません。
ところが今回は「ペトロ」の名前を持つ者が3人もいるのです。
もし次期教皇が「ペトロ」になりましたら、世界が終わるサインかもしれません。
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最近、やたら「豚に真珠を投げるな」、「猫に小判」という言葉が、統失でもないのに来るわけですが、恐らくですが、カテゴリーを整理しろということらしいのです。
取り合えず、気づいた記事から随時、「Truth」の方に移行していくことにします。
加筆・修正しながら移していくことになりますので、「Truth」は、しばらく今までの更新の仕方とは違ってきます。
ご了承下さい。
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