真理関係

宇宙即我の文明 2

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である : ヘーゲル 

ヘーゲルが使用する「理性」や「自由」という言葉は、通常の人間が使う意味での「理性」でもなければ、「自由」でもありません。

ヘーゲルは、神の心そのものを捉えて「理性」や「自由」という言葉を使っているのです。

ヘーゲル哲学が、神がヘーゲルの中に入って思索したかの如き「神の哲学」と言われてきたのは、人間の「理性」を駆使してヘーゲル哲学を理解しようとしても理解できないからです。

人間の「理性」は、むしろ神の理性を淵源にもっており、ヘーゲルはこの神の理性を捉えて自己の哲学を構築しているのです。

従って人間の知性や理性を通して、ヘーゲル哲学を理解しようとしても理解することはできません。

カント哲学は、難解とは言え、人間の知性と理性を駆使すれば、理解できる哲学になっておりますが、ヘーゲルの場合、その哲学が「詩」にまで昇華されておりますので、人間の知性や理性を駆使しても理解することができないのです。

ヘーゲルと同質の悟りを持っていなければ、決して理解することができない哲学になっています。

これはエマソンの思想も同じであり、カーライルやワーズワースは、エマソンの「道徳の第一哲学」を理解できなかったのです。

これはカーライルやワーズワースが、エマソンと同質の悟りを持っていなかったことを意味しています。

生前の高橋信次氏ならば、エマソンの著作を読めば、エマソンの「道徳の第一哲学」を理解できたはずです。

悟りの質が、ほぼ同質の悟りであり、自然界に神の心が表現され、象徴されているという「自然即我」の悟りを双方が持っていたからです。

自然は完全であるというエマソンの言葉にそれがあらわれています。

自然界の存在を神と言い、神は完全ですから、エマソンは自然を完全だと言ったのです。

エマソンは大宇宙や自然界の存在が神であるという真実に到達していたのです。

カーライルやワーズワースは、神の心という絶対的な心は、自然界に表現されているという真理を理解できなかったのです。

思想や哲学と言うのは、人間の頭脳で思索して構築するという「人間の思想」の域を出られなかったのです。

まだ自然即我ではなく、自然界とカーライルが離れており、自然界とワーズワースも離れているのです。

これは大宇宙や自然界に表現されている神の心が読めなかったことを意味しています。

エマソンのように「自然即我」の悟りを持っていなかったのです。

自然界は法のあらわれである。

人はこの法をもって思いと行いを正せよ。: 高橋信次

高橋信次氏は、神の法は、自然界や大宇宙にあらわれていることを明確に悟っています。

自然界には神の心が表現されており、この神の心に従って思いと行いを正せよと説いています。

神の心と人間の心を同じくしようとしたのです。

自然即我の悟りです。

宗教とは、大宇宙の心と人間の心を同じくし、自然界の心と人間の心を同じくし、神の心と人間の心を同じくするものです。

完全な神の心と不完全な人間の心を同じくし、大宇宙と同様、統一(神の心)と矛盾(人間の心)を同じくするものです。

正法とは、神の心と人間の心を同じくするという、ただこれだけなのです。: モーゼ

神の心と人間の心が同じくなっていないから地獄に堕ちる人が増加しているのです。

地獄に堕ちる人間を消滅させたければ、神の心と合一していくしかありません。

神の心と合一して地獄に堕ちる人はいません。

一人も地獄に堕ちることなき地上天国とは、神の心を「天」に置き、未熟な人間の心が、これと合一した時に創られます。

矛盾した存在に過ぎない人間が、全人類を救うことは不可能ですので、全ての人間が天上界へと帰天していく地上天国を建設したければ、神の心を「天」に置くしかありません。

他に選択肢はないのです。

この神への信仰が、個人の自由のわけありません。

神の心を悟り、真正の自己を知るという「人生の意義」は、それを信じようが、信じまいが自由なのではなく、この宇宙では「永遠の義務」になっています。

人間精神の根源的本質とは神の心であり、この真正の自己を悟っていくことは「永遠の義務」なのです。

汝自身を知れ : ソクラテス

汝の「心」の中心に神の心が存在しておりますので、これを悟ることは「人生の意義」になっているのです。

汝の「心」の本質を信じようが、信じまいが、個人の自由ではなく、2500年前のソクラテスの時代から変わらず、「永遠の義務」になっています。

悟りとは、真正の自己を知る、これに始まってこれに尽きる : 西田幾多郎

「真正の自己」のことを神の心と言い、その神の心は大宇宙や自然界に表現されています。

大宇宙を知ることを、「真正の自己」を知るというのであり、大宇宙を知れば、宇宙即我となって、宇宙の心と人間の心は同じくなります。

宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪ですので大宇宙、すなわち神の心と離れれば、人間はみな「悪の存在」になっていくのです。

いつでも「神への傲慢」が、文明と人類を滅ぼしていくわけですが、「神への傲慢」とは、相対的なもの(利益と快楽)を絶対化し、神が永遠に「地」と定めているものを「天」に置くことです。

これを「神への傲慢」と言うのです。

今の人類も相対的な富を絶対化し、神が永遠に「地」と定めている相対的な利益と快楽を「天」に置いて「神への傲慢」に耽っておりますので、いつ滅ぼされても不思議ではないのです。

この「神への傲慢」は、大宇宙と文明が対立している姿であり、宇宙と人類が離れているのです。

宇宙即我が善であり、宇宙と我とが離れていれば悪ですので、今の人類と文明は見事に「悪の存在」と化しています。

「悪の存在」になっているから世界は悪化を続けているのです。

人類が「善の存在」ならば、ここまで悪化することはありません。

過去・現在・未来の人類における永遠不変の「善悪の基準」とは、大宇宙の存在なのであり、神の心が基準になっているのです。

これは永遠に変わらないし、誰も変えることのできない「善悪の基準」なのです。

この神の心が「信仰の自由」のわけないのです。

「信仰の自由」を主張される方は、神の心を何も知らず、何も悟っていない方なのです。

高橋信次氏時代のGLAでは、自然界の心と人間の心を同じくする目的で「八正道」を説いていたのです。

神の心とは、大宇宙や自然界にあらわれているからです。

完全なる神の心と不完全なる人間の心を合一するために「反省法」を説いていたのです。

神人合一の悟りとは、大宇宙と人間との合一であり、自然界と人間との合一なのです。

神の最もそば近き世界を如来界と言いますが、ここの神霊達の共通の悟りとは、「宇宙即我」の悟りであり、「天地一体」の悟りであり、「自然即我」の悟りであり、「主客合一」の悟りであり、「多次元世界即我」の悟りなのです。

大宇宙が神であり、自然界が神であり、多次元世界が神であるという事実を、みな悟っておられるのです。

20秒です。

「神はこの自然界、大宇宙そのものが神なのです」と、はっきり言っているはずです。

大宇宙や自然界の存在が「真の神」であるという事実を知らない者は、神の心を説いている者ではありません。

大宇宙や自然界の存在を神と言いますので、これが神であることを知らない人間は、神を知らないわけですから、そもそも未熟な人間を神の心と合一させることができないのです。

未熟な人間の心を、一体何と合一させればいいのかを知らないからです。

未熟な人間の心は、この大宇宙と合一させ、自然界と合一させ、多次元世界と合一させなければならないのです。

子供が親の膝の上に乗るようなものです。

大宇宙と合一し、自然界と合一し、多次元世界と合一して地獄に堕ちる人はいないのです。

神の心と離れれば、「罪の子」となって、本人が地獄に堕ちてしまうのです。

如来界のお歴々は、常に大宇宙と合一し、多次元世界と合一し、神の心と合一しておられます。

大宇宙が神であり、自然界が神であり、多次元世界が神そのものだからです。

神の心を探究し、よくわが心を悟っていけば、誰であろうが、最後は必ずこの大宇宙と自然界の存在に到達するのです。

わが心を極めれば、必ず大宇宙という同じ存在に到達します。

もしその悟りが、大宇宙と自然界の存在にまで到達していなければ、その悟りはまだ未熟な悟りなのです。

ヘーゲルが「理性的なものは現実的」と言う時、神の心は大宇宙や自然界に現実化していると言っているのであり、「現実的なものは理性的」と言う時、大宇宙や自然界という現実的なものには、神の心があらわれていると言っているのです。

ヘーゲルは、大宇宙の存在を神と言っているのです。

西田哲学であろうが、ヘーゲル哲学であろうが、エマソンの象徴主義であろうが、高橋信次氏の真理であろうが、共通点は理解できるはずであり、神の心を悟られた方々は、洋の東西を問わず、共通して大宇宙や自然界が神であるという事実に到達しておられるのです。

この悟りは、ここ3000年の歴史では、頂点の悟りなのです。

近代、出られただけあって、その真理は高度な質を有しており、非常に正確です。

「救世の法」を編纂する上でも、彼らの真理は、「救世の法」の基礎と土台に置かざるを得ないのです。

この地球で、頂点の真理を説かれた方々だからです。

神の心を最高度に悟っていけば、最後は彼らと同じ悟りに行き着くのです。

すなわち「宇宙即我」の悟りです。

「宇宙即我」の悟りは、如来の悟りと言われてきたと思いますが、何も如来だけが「宇宙即我」なのではなく、5次元幽界から10次元宇宙界まで、全ての次元世界の住人が「宇宙即我」であると言う悟りなのです。

この世の人類もみな同じであり、過去・現在・未来の全人類は、全て「宇宙即我」であり、大宇宙と一体で生きているという悟りなのです。

大宇宙と一体で生きているということは、神と人類は永遠に一体で暮らしているということです。

誰もが神の心と永遠に暮らしているのに無神論を標榜するから世界も人類も狂っていくのです。

人間のほうは、あまり意識していないようですが、それでも神と一体で生きています。

神と人類の関係は、永遠に切ることができないのです。

要は神との暮らし方を知らないのです。

宇宙は神の心の表現体であり、人間と同様、宇宙は「神の心」と「神の体」で構成されています。

神と人類が、永遠に一体で生きているということは、過去・現在・未来の全人類は、一人残らずが、この「神の心」と「神の体」に支配されているということです。

この神の支配に抗えば、その反作用は常に人類のほうにくるのです。

今の人類がそうなっておりますけれども、その原因とは真理知識に関する無知なのです。

神が人類をどう支配し、指導しているのかを知らないのです。

これを原因として結果、今の狂った世界となり、人類もまた悪化を続けています。

神は「神の心」と「神の体」で人類を支配しながら、その人類の心を永遠に指導しているのです。

この神の人類支配は、人間ではどうしようもありません。

人間はこの「神の心」と「神の体」からは、誰も出ることができないのです。

大宇宙から出られないのです。

人間は、誰の表面意識や自我であろうが、その知識・思考・概念・認識・情操、みな相対的な性質しか有しておらず、それは矛盾を意味しています。

矛盾しか存在しない世界で、人類の救済や幸福はないのです。

神の心が統一であり、神の体は矛盾です。

神の心と神の体は、永遠に一体であり、統一即矛盾が大宇宙の姿であり、神の人類への教えなのです。

大宇宙の存在が人類の変わらぬ「善悪の基準」になっておりますので、統一即矛盾が善であり、統一と矛盾が離れれば悪なのです。

神の心が統一であり、人間の心は矛盾です。

統一即矛盾が善ですので、神の心(統一)と人間の心(矛盾)が「統一即矛盾」となれば、宇宙の姿に戻り、人間は「善の存在」になります。

統一と矛盾が分かれますと悪になり、神の心(統一)と人間の心(矛盾)も離れますので、宇宙との融合を失い、人間は「悪の存在」になるのです。

宇宙即我が善であり、宇宙と我との分離が悪ですので、大宇宙と離れた人間は「悪の存在」にならざるを得ないのです。

神と離れますと、人類には矛盾しか残らないのです。

矛盾しか存在しない世界とは、「地」に向かう世界であり、悪化していくしかない世界です。

この宇宙では、統一が「天」であり、矛盾が「地」で、永遠に天地一体です。

神の体(物質)の矛盾は、全て神の心が統一しています。

神とは宇宙の大統一者である : 西田幾多郎

神への信仰を失えば、人類には「物質の矛盾」と「自我の矛盾」しか残らないのです。

統一と矛盾が分離してしまいますので、信仰なき世界は、その矛盾によって悪化していくしかないのです。

「自我の矛盾」で、足掻きに足掻いた結果、真理も矛盾だらけとなり、一貫して悪化していった挙句、最後はその「矛盾の大海」に没し、死んでしまった救世主がおりましたけれども、神への信仰を失っていた証拠なのです。

この宇宙は統一即矛盾の世界であり、双方は一実在の両方面です。

統一と矛盾を切ったら実在とはならず、自我となり、悪になるのです。

統一即矛盾が善であり、統一(神の心)と矛盾(人間の心)が分かれれば悪だからです。

神の体(大宇宙・矛盾)は、神の心が隅々まで統一しておりますので善として存在しています。

この大宇宙の構造と仕組みから、神への信仰を失った人間は「悪の存在」にならざるを得ないのです。

矛盾した存在に過ぎない人間が、「善の存在」になるには、神の心(統一)と合一し、大宇宙と同様、統一即矛盾の宇宙の姿に戻るしかありません。

そうでなければ、人間は「善の存在」にはなれず、「善の存在」になれなければ、地上天国も創れないのです。

この大宇宙に暮らしている限り、人間は神への信仰によって「善の存在」になり、神への不信仰によって「悪の存在」になるのです。

我々未熟な人間が、果たして「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに神の心と合一できるか、否かにかかっているのです。

この神の心が「信仰の自由」のわけないのです。

神の心と合一して地獄に堕ちる人が一人もいなくなるということは、一人残らずが「善の存在」になるということです。

一人残らずが「善の存在」になるとは、一人も地獄に堕ちることなき地上天国が、この世に建設されるということです。

この地上天国建設が、人類の「永遠の目的」です。

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