今回の「救世の法」の柱は「4本」あります。
1. 多次元世界の存在(あの世 / 永遠の世界)
2. 輪廻転生の法則
3. 悟りの段階論(幸福の段階論)
4. 反省法
この「4本柱」のうち、どれか一つ欠けても「救世の法」の完成と成就はありません。
悟りに上限はありませんので、一体どの程度悟れば、「救世の法」の完成と成就と言えるレベルの悟りになるのかは、実は判然としません。
恐らく「踊り場」的な「悟りのレベル」はあるのでしょうが、判然としない限り、「神の心」を悟り続けていくしかありません。
4つ目の「反省法」は、高橋信次氏時代のGLAの「反省法」が土台ですが、あえてこの「反省法」に付け加えるとすれば、「如来の反省」というのは、単に個人の「思うこと」と「行うこと」を反省するだけでは済まず、人類全体の「反省」が必要になるのです。
歴史全体を通しての「反省」です。
個人の「反省」の本質も「神の心」と「個人の心」との合一ですが、人類全体の「反省」の本質も「神の心」と「人類の心」との合一なのです。
個人であれ、人類全体であれ、「神の心」と離れてしまっているがゆえに、多くが地獄に堕ちています。
これは単に個人の「反省」だけで解決のつく問題ではないのです。
いくら個人が正当に「反省」しましても、人類全体のほうはそうはいかないのです。
相対的な富を「天」に置いた資本主義、相対的な利益を「天」に置いた民主主義、相対的な物質を「天」に置いた社会主義等、既存の政治体制や経済原理そのものが、「神」が永遠に「地」と定めているものを「天」に置いておりますので、文明の全体ごと「神の心」と離れてしまっているからです。
利益や快楽、あるいは自我や物質は「相対的なもの」ですので、「神」によって永遠に「地」に置かれているものです。
「神」の創られた世界は「絶対の世界」ですので、富や利益、あるいは物質が「天」に置かれることは永遠に「ない」のです。
永遠に「ない」ということは、利益や快楽、あるいは物質や自我は、永遠に「地」に置かれているということです。
絶対的な意味において「地」に置かれておりますので、未熟な人類のほうがこれを「天」に置けば、必然的に大宇宙や自然界との融合を失い、自然界と文明の「歯車」がかみ合わなくなり、「自然即我」の文明ではなく、「自然」と「我」とが離れた「悪の文明」になってしまうのです。
「大宇宙」や「自然界」、並びに「多次元世界」の構造と仕組みは、
「神の心」が「天」であり、「神の体」が「地」です。
人類の創った「文明」の構造と仕組みは、
「神の心」が「地」であり、「神の体」(利益と快楽)が「天」です。
見事に「大宇宙」と「文明」が分離し、「自然界」と「文明」が分離し、「多次元世界」と「文明」が分離してしまっているのです。
「悪」とは、「神の心」と「人間の心」が離れ、「大宇宙」と「文明」が離れ、「自然界」と「人類の心」が離れることを言いますので、我々の文明は「悪の文明」になっているということです。
「善」とは、「神の心」と「人間の心」が合一し、「大宇宙」と「文明」が合一し、「自然界」と「人類の心」が合一していることを言いますので、「善の文明」を創るには、「大宇宙」と「文明」を合一していくしかありません。
正法とは、神の心とおのれの心を同じくするという、ただこれだけなのです : モーゼ
「人間」も、果たして「善の存在」になるのか、あるいは「悪の存在」になるのかは、ひとえに眼前の「大宇宙の存在」や「自然界の存在」に依存しておりますけれども、「文明」も同じく、果たして「善の文明」になるのか、あるいは「悪の文明」になるのかは、「大宇宙の存在」や「自然界の存在」に依存しているのです。
「神の心」と「文明」が合一した時、その文明は「善の文明」になり、「神の心」と「文明」が分離した時、その文明は「悪の文明」になるのです。
大宇宙や自然界の存在のことを「神」と言いますので、「個人」にしろ、「人類」にしろ、あるいは「文明」にしろ、果たしてその存在が「善」になるのか、あるいは「悪」になるのかは、ひとえに「神の存在」に依っています。
「個人の心」にしろ、「神の心」と同じくなれば、「善」となり、みな天上界へと還っていきますが、「神の心」と同じくできなければ、「悪」となり、みな地獄に堕ちてしまうのです。
誰も地獄に堕ちたい人はおりませんので、モーゼが述べていたように、「神の心」と「おのれの心」を同じくするしかありません。
信仰に選択の余地はありません。
そうするしかないということです。
「神の心」と合一して地獄に堕ちる人はいないからです。
地獄に堕ちる人がいない、すなわち不幸がないのです。
人間が「善の存在」になるからです。
「神の心」は、人類の「全ての不幸」を消滅するのです。
従って「神の心」を否定したり、無視すれば、「人類の不幸」がなくならなくなるのです。
全人類を幸福にしてくれる存在を「神」と言います。
諸神霊は、現代人の「6割以上」が地獄に堕ちていると述べておられましたが、気候変動を見ましても、生物種の年間「4万種類」の絶滅を見ましても、今の文明は非常に「不幸な文明」です。
この「不幸な文明」を「幸福な文明」に変えるには、大宇宙や自然界の存在と合一した「宇宙即我の文明」を創り、「自然即我の文明」を創り、「多次元世界即我の文明」を創っていくしかありません。
最後は「神」に頼るしかないのです。
大宇宙や自然界の存在のことを「神」と言いますので、「宇宙即我の文明」とは、「神即我」の文明です。
大宇宙や自然界と離れ、多次元世界と離れてしまったがゆえに「不幸」になってしまった我らですから、「幸福」になっていくには、「神の心」と「人間の心」を同じくしていくしかありません。
その「神の心」と「人間の心」を分離し、「大宇宙」と「文明」を分離している制度が、今の政治体制であり、経済原理なのです。
「人民共通の利益」に基づいた国家契約である「民主主義」は、「神」が永遠に「地」と定めている「利益」を「天」に置いておりますので、「民主主義」と言う政治体制を通して、宇宙と文明が分離してしまっているのです。
宇宙と文明が分離しているということは、「悪の文明」になっているということです。
また「資本主義」を通して、相対的な「富」を「天」に置いておりますけれども、この「富」が象徴する「現象利益」(矛盾)も、「神」によって永遠に「地」と定められているものですが、今の人類はこれを「天」に置いているため、「資本主義」を通して、自然界と文明が分離してしまっているのです。
自然界と文明が分離しているということは、「悪の文明」になっているということです。
「社会主義」も同じであり、相対的な物質を「天」に置いておりますので、それを永遠に「地」に置いておられる自然界と文明が分かれてしまっているのです。
自然界と離れることを「悪」と言いますので、今の文明は「社会主義」を通して、「悪の文明」になっているということです。
従って「神」の創られた通りの世界に戻そうとすれば、「民主主義」や「資本主義」、あるいは「社会主義」の全てを、その根源から変えていかなければならないのです。
今まで人類が歴史上、創り上げてきた政治体制や経済原理への「反省」と「総括」が必要になってくるのです。
歴史全体の「反省」が必要なのです。
人は「天」に置いたものを「目的」にしますので、いくら人間が「反省」しても、それはあくまで「利益や快楽」という「悪」が「天」に置かれた体制下での話ですので、いくら人間が「反省法」で「神の心」と合一しても、相も変わらず、政治体制や経済原理の中では、「利益と快楽」が「天」に置かれておりますので、「自然界」と「文明」の融合はないのです。
政治体制や経済原理の根源的変革まで行かなければ、「救世の法」の完成とはならず、「自然即我の文明」にもならないのです。
過去・現在・未来の全人類に普遍妥当する永遠不変の「善悪の基準」とは、目の前の「大宇宙の存在」であり、「自然界の存在」であり、「多次元世界の存在」なのです。
「宇宙即我」の文明が「善」であり、「宇宙」と「文明」とが離れれば「悪」なのです。
「自然即我」の文明が「善」であり、「自然界」と「文明」とが離れれば「悪」なのです。
大宇宙や自然界では、永遠に「神の心」が「天」に置かれておりますので、人間の創る文明のほうも「神の心」を「天」に置かなければ、「宇宙即我の文明」にならず、「自然即我の文明」にならないのです。
「宇宙即我の文明」にならないとは、いつまで経っても人間の創る文明は「善の文明」にならないのです。
大宇宙や自然界の存在とは、「絶対的な存在」ですので、誰もその世界の構造と仕組みを変えることはできないのです。
従って人類のほうが「神の心」を「天」に置かなければ、その人間の創る文明は大宇宙と離れ、自然界と分離し、「悪の文明」になっていくだけの話なのです。
「宇宙即我」が「善」であり、「宇宙」と「我」とが離れれば「悪」だからです。
「自然即我」が「幸福」であり、「自然」と「我」とが分離すれば「不幸」なのです。
今後の人類の「歴史」は、「個人」にしろ、「人類全体」にしろ、「文明」にしろ、「大宇宙の存在」に向かうということです。
「大宇宙の存在」のことを「神」と言いますので、今後は存在するものの「全て」は「大宇宙」に向かい、「神」に向かうということです。
全てが「神」に向かうとは、全てが「宇宙即我」の悟りを目標とし、目指していく世界になるということです。
今まで数千年の「人類の歴史」を見ましても、必ずしも「宇宙即我」の悟りを目指してきたとは言えないのです。
多次元世界でも、その霊的進化の最高峰である「如来界」におられる諸神霊共通の悟りとは、この「宇宙即我」の悟りなのです。
わが心を最高度まで悟れば、どの人間であろうとも、最後はこの「宇宙即我」の悟りに到達するのです。
ここが一つの「頂点の悟り」ですので、あの世だけではなく、今後はこの世でもこの「宇宙即我」の悟りが目標となり、目的になるということです。
これを「宇宙即我の文明」と言っていいでしょう。




























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